ミュンヘンオリンピック事件
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事前の計画では機内に警察官を配置して待ち伏せを行う予定であったが、直前で抗命事件が発生した(後述#人質救出作戦の失敗要因を参照)ために機内には誰もおらず、2名は案内役すらいないことを不審に思い、ヘリコプターへ走って逃げ戻った。その時、滑走路上の狙撃手の1人が発砲し、副リーダーは太ももを負傷したが、リーダーがヘリコプターまでたどり着き、警官側に応射した。これに対し警官側も応戦を始め、銃撃戦になった。

占拠部隊はヘリコプターに立てこもり、狙撃手として配置されていた警官隊は装備が不十分なため応援部隊を待つことにした[3]。空港周辺に詰めかけたマスコミと野次馬による交通渋滞に阻まれて到着が大幅に遅れた応援部隊は、事態がほぼ収束した午後11時30分頃、ようやく現場に到着した。

最終的に、ゲリラの1人が手投げ弾で自爆し、人質が乗ったヘリコプターが爆発、炎上した。人質たちは、両手を後ろ手に縛られ、目隠しのまま、数珠つなぎにされていたため逃げることができなかった[注釈 3]。結果的に人質9名全員と警察官1名が死亡するなどという最悪の結末で事件は終結した。犯人側は8名のうちリーダーを含む5名が死亡し、残りの3名は逃走を図るが、その後、逮捕された[3]。だがこの3名は同年10月29日のルフトハンザ航空615便ハイジャック事件(英語版)で解放されることになる[4]

イスラエルではオリンピックの中止を求めるデモも起きたが、反ユダヤ的言動で知られたアベリー・ブランデージIOC会長の命令により続行が指示された。9月6日午前10時からオリンピック・スタジアムで8万人の観衆を集めて、イスラエル選手団の追悼式が行われた。同日午後4時50分、オリンピックは34時間ぶりに再開された[5]
死亡者ロッド空港で犠牲者の棺を乗せたイスラエル軍用車ミュンヘンオリンピック公園に設置された犠牲者の慰霊プレート
人質

()内の数字は年齢

モシェ・ワインバーグ(32) - レスリングコーチ

ユセフ・ロマーノ(32) - ウェイトリフティング選手

ゼエブ・フリードマン(28) - ウェイトリフティング選手

ダヴィド・バーガー(28) - ウェイトリフティング選手

ヤコブ・シュプリンガー(51) - ウェイトリフティング審判員

エリゼル・ハルフェン(24) - レスリング選手

ユセフ・グトフロント(40) - レスリングレフェリー

ケハト・シュル(53) - 射撃コーチ

マーク・スラヴィン(18,人質最年少) - レスリング選手

アンドレ・シュピッツァー(27) - フェンシングコーチ

アミツール・シャピラ(40) - 陸上コーチ

警察官

アントン・フリーガーバウアー

犯人

ルッティフ・アフィフ


ユスフ・ナザール

アフィフ・アハメド・ハミド

カリド・ジャワード

アハメド・チク・ター

人質救出作戦の失敗要因

この事件では、以下の失敗が被害拡大を招いたとされる[3]

主な要因としては、

人質救出作戦に従事した警察官のほとんどは地元警察の一般警察官であり、現場指揮官や実行者には、テロ対策などの高度な専門訓練を受けた経験がほとんど無かった

情報が不足していた上、マスコミの実況中継で警察の動きは犯行グループ側に筒抜けだった

基地には簡易な作業灯しかなく、強力な照明装置や暗視装置等が無かったにもかかわらず深夜の狙撃を断行した

当時は携帯型無線が大型で、運用には大規模設備と専門要員が必要であったため部署や現場間での連絡が困難であった

狙撃手の銃はスコープの付いていない通常型の警察用アサルトライフルH&K G3)であったため[注釈 2]、精度の高い射撃が行えず、作戦上必要な高度な狙撃ができる状況ではなかった

犯人は4~5人しか居ないという間違った情報(正確には8人)から作戦を立てたために5人の狙撃手しか用意しておらず、その「狙撃手」にしても射撃の成績が良いという理由で集められた一般警察官であり、狙撃の専門的な訓練を受けていなかった

ヘリコプターが所定の位置とは異なる場所に着陸したため、着陸段階から狙撃が不可能になっていたにもかかわらず、計画をそのまま続行させた

犯人を油断させるために用意したルフトハンザ機には、警察側が待ち伏せを準備していたが、待ち伏せ配置に就かされた警察官に与えられた装備は拳銃と少数の機関短銃であり、自動小銃や手榴弾を装備しているテロリストグループに対しては不十分で、これを理由に直前で抗命されたので、急遽、多数決による意思決定を行い、反対多数であったので、警察官達は機内にいるよりは外に出てテログループと対決しようとなった。これは前述のようにテロリストを警戒させ、作戦の破綻を決定的にした

などが挙げられている。

これらの多くは、州権主義・平和主義的な色彩の強いボン基本法上の制約によって、西ドイツ警察が爆弾などで武装したテロリストに対抗するだけの装備を持たず、また訓練も行わなかったことや、平時における西ドイツ連邦軍のドイツ国内での(準)軍事行動が認められていなかったことに起因する。
その後

西ドイツ当局はこの事件について、公式に調査・検証を行うことなどはしていない[3]。しかし西ドイツ政府はこの事件の結果を受け、1972年9月に連邦国境警備隊傘下の対テロ特殊部隊として「第9国境警備群(GSG-9)」を創設した。GSG-9は、1977年にパレスチナ解放人民戦線(PFLP)のテロリスト4名が起こしたルフトハンザ航空181便ハイジャック事件に際して実戦投入され、イギリス軍の特殊部隊SASの支援の下ハイジャックされた181便(ボーイング737-200)に強行突入し、僅か5分で犯人4名のうち3名を射殺・1名を逮捕。


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