ミュティレネのラオメドン
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しかし、他に目立った働きや活躍は見られない[2]
アレクサンドロス死後

紀元前323年の王の死後、バビロンにてその家臣たちは属領と地位の分配を行い(バビロン会議)、ラオメドンは重要な地域であったシリア太守に任じられた[3][4]。その後の有力者ペルディッカスの死後(紀元前321年)開催されたトリパラディソスの軍会でもラオメドンはその地位を維持した[5]

しかし、ラオメドンの所領は勢力拡大を目論む隣人、エジプト太守プトレマイオスによって狙われた。プトレマイオスはラオメドンにシリアの統治権と引き換えに金を渡すことを提案したが、その提案をラオメドンは拒否した[6]。そこでプトレマイオスはシリア侵略のために将軍ニカノルを送り、ラオメドンはニカノルに敗れて捕らえられ、エジプトに送られた[7]

しかし、ラオメドンは看守を買収して逃亡に成功し、カリアアルケタスに合流した[6]。ところがアルケタスは紀元前320年クレトポリスの戦いアンティゴノスに敗れ、アルケタスの派は四散した[8]。ラオメドン自身のその後の消息は不明である。
^ アッリアノス, III, 6
^ ibid, III, 6
^ ディオドロス, XVIII, 3
^ ユスティヌス, XIII, 4
^ ディオドロス, XVIII, 39
^ a b アッピアノス, 52
^ ディオドロス, XVIII, 43
^ ディオドロス, XVIII, 44-45

参考文献

ポンペイウス・トログス / ユスティヌス抄録『地中海世界史』 合阪學 訳、京都大学学術出版会西洋古典叢書〉、1998年

アッリアノスアレクサンドロス大王東征記』 大牟田章訳、岩波文庫(上下)、2001年

ディオドロス『アレクサンドロス大王の歴史』 森谷公俊 訳註、河出書房新社、2023年。完訳版

外部リンク

アッピアノスの『ローマ史』の「シリア戦争」の英訳

ディオドロスの『歴史叢書』の英訳


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