ミャンマー
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GDP(MER
合計(2020年)812億5700万[2]ドル(67位
1人あたり1,527.434(推計)[2]ドル

GDP(PPP
合計(2020年)2788億600万[2]ドル(54位
1人あたり5,240.843(推計)[2]ドル

独立
 - 日付イギリスより
1948年1月4日
通貨チャットMMK
時間帯UTC+6:30 (DST:なし)
ISO 3166-1MM / MMR
ccTLD.mm
国際電話番号95
注2: かつてのccTLDは.bu

ミャンマー連邦共和国(ミャンマーれんぽうきょうわこく、ビルマ語: ??????????? ????? ?????????????????[注 4])、通称ミャンマーは、東南アジアインドシナ半島西部に位置する共和制国家首都ネピドー2006年まではヤンゴン)。

イギリスから独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦、通称ビルマ。東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、人口は5441万人(2021年)[1]
概要
独立まで

初期の文明としてはモン族が南部に、ピュー族の都市国家が中央の乾燥地帯に栄えたが、南下してきたビルマ族が1050年代にパガン朝を建てた。パガン朝が1287年にモンゴルの侵略で滅ぼされた後は小国が分立したが、ビルマ族のタウングー朝が1531年に国土を再統一。タウングー朝は1752年にモン族に滅ぼされたが、間もなくコンバウン朝が成立して全ビルマを統一。

19世紀に3度にわたる英緬戦争でコンバウン朝が滅びた後はイギリス植民地となった。1886年にイギリス領インド帝国の一州とされたが、1935年にはインドと分離された。第二次世界大戦中に日本の占領を受け、ビルマ国としてイギリスから独立したが、日本の敗戦で連合国に再占領され、イギリス植民地に戻った。その後英植民地体制崩壊の流れの中で、パンロン会議を経て1948年に英連邦に参加せず、ビルマ連邦共和国として独立。
独立後

1962年のクーデター後、ビルマ社会主義計画党ネ・ウィンの独裁政権となる。1974年に国名をビルマ連邦社会主義共和国と改名。1988年に民衆の民主化運動でネ・ウィン体制は崩壊したが、これを危惧したミャンマー国軍がクーデターを起こして軍事政権を設立し、国名をミャンマー連邦に改名した[3][4]

独立してからのほとんどの期間、ミャンマーは横行する民族紛争に巻き込まれ、無数の民族グループが世界で最も長く続いている内戦の一つに巻き込まれてきた。この間、国際連合をはじめとするいくつかの組織は、一貫して組織的な人権侵害を報告してきた[5][6][7]

2011年には、2010年の総選挙で軍事政権が正式に解散し、名目上の文民政権が発足した。これにより、アウンサンスーチーや政治犯の釈放とともに、同国の人権記録や対外関係が改善され、貿易などの経済制裁が緩和された[8][9]。また国名をミャンマー連邦共和国に改名した[3][4]。しかし、政府の少数民族への扱いや民族反乱への対応、宗教的な衝突への批判が続き[10][11]、2015年に行われた画期的な選挙でアウンサンスーチーの党が両院で過半数を獲得したが、ミャンマー軍は依然として政治に大きな影響力を持ち続けた。2021年2月1日、ミャンマー軍はアウンサンスーチー国家顧問と大統領を拘束し、非常事態を宣言した。軍は政権が国軍トップのミン・アウン・フライン最高司令官に「移譲された」とし、政権を奪取したと発表した(2021年ミャンマークーデター[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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