ミハイ・エミネスク
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闘病期エミネスクの墓

1884年1月、イポテシュティで、ミハイの父ゲオルゲが亡くなった。このすぐ後、ミハイは古い友人であるアレクサンドル・キビチ・レヴニャーヌに、また2月にもマヨレスクに、国に戻りたいと手紙を書いている。医師はミハイにイタリアを通っての旅を勧め、 2月末、ミハイはキビチと一緒に勧められた旅路に出発し、3月末、大勢の友人たちに迎えられてブカレストに到着した。その後ヤシに行ったり、10月にはその年の『ジュニメア』のパーティーに出るなどしていたが、11月にはまた入院する事となった。その後、入退院を繰り返す事となる。

ミハイは晩年、双極性障害に苦しんでいた。更に1883年にはルーマニアで梅毒と診断されていたと、後にルーマニアの作家で文学評論家のジョルジェ・カリネスク(英語版)は詩人ミハイの伝記で書いている。ミハイは20歳の時から病気を患っていた。しかし、ウィーンで下された別の診断では1883年の衰弱は記述があるが、梅毒については言及していない上、翌1884年にルーマニアに戻ったミハイは、通常の健康状態に見えた。このような疑問の中、1886年、ミハイは梅毒の時に行う因襲的な治療法、水銀注射の投与を受けている。

1889年6月15日、ミハイはブカレストのシュツ医師の病院で、39歳で亡くなった。しかし当時のミハイの検死は酷いものであったため、ミハイの本当の死因は謎のままに終わってしまった。その後、ミハイはブカレスト最大の墓地ベル(英語版)に埋葬された。

近年の研究によれば[2]、当時のルーマニアとオーストリア当局がルーマニア?オーストリア条約の強力な政敵を排除するように命じて、エミネスクを「病気」にすることを企てたと主張されている。秘密条約はルーマニアに、当時オーストリア統治下にあったトランシルバニア地域のルーマニア人への支援を止めるように要求した。それは暫くの間実行され、トランシルバニア出身のルーマニア人をブカレストから去らせる原因になった。エミネスクもまた去る事になり、定期的に監視下に置かれた。そして唯一(未確認)の梅毒診断は、ルーマニアの医者達によって下されたものだった。
作品

ルーマニアの歴史家ニコラエ・ヨルガ(英語版)はエミネスクを古ルーマニア語の父と呼んだ。ミハイはルーマニアの詩人として最も偉大で最も代表的な人物として、誰もが認め祝福した。
詩歌ミハイル・エミネスク詩集(1884年).mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ルーマニア語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。ミハイ・エミネスクの作品

ミハイの詩は、自然や歴史への愛や社会的論評など、主題が広い範囲に亘る。ミハイの幼少期が深い郷愁を生み、晩年の詩歌に繋がった。

また、ミハイはアルトゥル・ショーペンハウアーの業績に影響を受けており、最も有名な詩「金星ルチャーファル(英語版)」(Luceaf?rul)はヴェーダーンタ学派宇宙起源論の基本原理を含むことを示唆している人々もいる。現在ミハイの詩は60を超える言語に翻訳されている[注釈 3]。またミハイの一生、仕事そして詩はルーマニア文化に強い影響を与え、ミハイの詩を学ぶ事はルーマニアの公立学校では必修科目になり、しばしば「金星ルチャーファル」(Luceaf?rul)の暗記や検討が、高校の卒業試験の必須項目になっている。
ミハイ・エミネスクの有名な詩[注釈 1]


ドイナ(Doina) (ドイナとはルーマニアの歌の伝統的な型の名)1884

湖 (Lacul)1876

金星ルチャーファル(Luceaf?rul)1884[3]

青い花(Floare albastr?)1884

願望(Dorin?a)1884

丘の上の夕暮れ(Sara pe deal)1885

ああ、追憶のなかで(O, r?mai)1884

模倣者たち(Epigonii)1884

手紙(Scrisoarea) 1881

そして、もし(?i dac?)1883

古代の韻による叙事詩(Od? (in metru antic))1883

私はまだ、一つの望みを持っている(Mai am un singur dor)1883

おやすみ、森の小鳥たち (Somnoroase P?s?rele)[4]

小説
散文


涙のファト・フルモス (F?t-Frumos din lacrim?)(ファト・フルモス
はルーマニア伝承神話の騎士英雄の名)

枯渇した才能(Geniu pustiu)

不幸なディオニス(S?rmanul Dionis)

ふさわしい名前(Cezara)

全集版


ミハイ・エミネスクの詩と散文(Poems and Prose of Mihai Eminescu)(編集: カート・W・トレプトウ, 出版社: The Center for Romanian Studies, Ia?i, Oxford, and Portland, 2000, .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 973-9432-10-7) 英訳版傑作選集。

ルーマニア文化の中のエミネスク
天才

文学協会『ジュニメア』のリーダーの1人で、ルーマニアの1870年代の文学評論家ティトゥ・マヨレスクは、弱冠20歳の時のエミネスクを、自身の評論(その中では、その当時のルーマニアの詩人のうちの少数しか酷評を免れなかった)の中で「本物の詩人」と呼んだ。それから10年の間に、エミネスクの詩人としての名声は3つの理由などで絶えず成長していった。
ミハイは、全ルーマニア方言や古い語法、広い哲学的解釈によって作り上げた新語で、文学的な言葉を豊かに扱った。


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