ミハイル・アレクサンドロヴィチ・バクーニン(ロシア語: Михаи?пBАлекса?ндрович Баку?нин、1814年5月30日 - 1876年7月1日[1])は、ロシアの思想家で哲学者、無政府主義者、革命家。元正教徒で無神論者。 ロシア帝国の貴族の家に生まれ、少年期から青年期にはロシア軍に仕官したが1835年に退官。その後モスクワで哲学を学び、急進派のサークルと交流を持つ。特にゲルツェンからは多大な影響を受けた。1842年にはロシアを発ってドレスデンへ赴き、のちにパリでジョルジュ・サンドやピエール・ジョセフ・プルードン、そしてマルクスと出会っている。 ロシアのポーランド弾圧に反対し、ついにはフランスを国外追放された。1848年革命ではチェック人の蜂起に加わったため、ドレスデンで逮捕された。ロシアへ移送され、サンクトペテルブルクのペトロパブロフスク要塞に収容された。1857年まで獄中生活を送った後にシベリア流刑となった。 1861年に脱走。日本とアメリカを経由してロンドンへ逃れ、ゲルツェンとともに急進派の言論誌『カラコル』(ロシア語で「鐘」の意味)の刊行に一時携わった。1863年にはポーランドの一月蜂起に参加するため出発するが、現地へは到達できずスイスとイタリアにしばらく留まった。犯罪者の立場ではあったが、ロシアやヨーロッパ全土で急進派の若者に大きな影響を与えていった。1870年には、パリ・コミューン誕生の先駆けとなるリヨンの暴動に加わっている。 1868年には、急進派と労働者組織の連合であり、ヨーロッパ各地に支部を持つ国際組織第一インターナショナルに加入。のち、自身の支持者とともにジュラ連合
経歴
バクーニンはアナキズムの歴史を語る上で重要な人物である。またマルクス主義、とりわけマルクスの主張したプロレタリア独裁に反対したことでも知られている。ノーム・チョムスキーなど、現代のアナキストにも影響を与えている。 1814年春、モスクワの北西に位置するトヴェリ県プリャムヒノ(トルジョークとクフシーノヴォ間の地名)で貴族の家に生まれる。14歳の時にサンクトペテルブルクに出て砲兵学校で教育を受ける。1832年に卒業し、1834年にはロシア皇帝親衛部隊に准尉として入隊、当時ロシアに併合されていたリトアニアのミンスクとフロドナ(現在はベラルーシに属する)に赴いた。同年夏、家族の間で悶着があり、バクーニンは意に沿わない結婚をめぐって姉を庇った。父は息子に軍職と市民への奉仕を続けるよう望んだが、バクーニンはそのどちらも放棄しモスクワへ向かい、哲学を学んだ。
生涯
出生から青年期