ミハイル・トゥハチェフスキー
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しかしスターリンは@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}相変わらずポーランド・ソビエト戦争時の恨みを抱き続け、またトゥハチェフスキーがソ連軍に多大な功績を残して国内外からスターリンを差し置いて脚光を浴びるのを見るたびにスターリンは自尊心を傷つけられ、自分の独裁者としての地位さえも脅かしかねないと危機感を抱くようになっていく[要検証ノート]。トゥハチェフスキーはスターリンにとってもっとも不愉快な人物となり、ついにスターリンはその抹殺を目論むようになる。
粛清トゥハチェフスキーの切手(1963年)

1937年5月11日にトゥハチェフスキーは陸海軍人民委員代理の職を免ぜられ、ヴォルガ軍管区司令官に左遷されている[1]

ナチス・ドイツの諜報機関SD(親衛隊情報部)司令官ラインハルト・ハイドリヒも、独ソ戦があった場合もっとも強敵になるであろう名将トゥハチェフスキーを抹殺する絶好のチャンスを見逃さず、ドイツ国防軍の将軍たちとトゥハチェフスキーが接触していたという偽造文書の作成を1936年末ごろから開始していた。これをドイツからの攻撃を恐れて親ソになっていたチェコスロヴァキアベネシュ大統領に怪しまれないように入手させ、ソ連のチェコ公使アレクサンドロフスキーを通じて1937年5月上旬から半ば頃にモスクワのスターリンに送られたという[2]。この事実関係についてはほぼ間違いないとされている。一方ドイツ側のこうした工作の影響を過大評価はできず、ドイツ側がどう出ようがスターリンはトゥハチェフスキーを粛清していたと主張する者もいる[注釈 1]

また、戦後明らかにされた親衛隊情報部長(当時)ヴァルター・シェレンベルクの回顧録では、ドイツ側はトゥハチェフスキーのスターリン打倒計画を察知していたことを明らかにしている。ヒトラーはトゥハチェフスキーを追い出した方がソ連軍が弱体化すると判断、スターリンの特使に対して300万ルーブルで情報を売り渡したとしている[4]

いずれにせよスターリンはこれを口実にして、5月24日にソ連共産党政治局においてトゥハチェフスキーを「ドイツ参謀本部とゲシュタポのスパイ」とする決議を出し、1937年5月26日に彼を逮捕させた。トハチェフスキーは拷問にかけられ、自白を強要させられた。トゥハチェフスキーの調書にはその時の血痕が残されている[5]。6月10日までに取り調べは終了し、翌11日にヤキール一等軍司令官(キエフ軍管区司令官)・コルク二等軍司令官(フルンゼ陸軍大学校校長)・フェルトマン三等軍司令官(赤軍人事部長)・プリマコフ三等軍司令官(レニングラード軍管区副司令官)らともに特別軍事裁判にかけられ、裁判にかけられた8人全員が赤軍階級の名称剥奪の上、銃殺刑の判決[6]。刑は、その日の内にモスクワルビヤンカ刑務所で執行された[7]。トゥハチェフスキーの家族(妻ニーナ、母マウラ、弟アレクサンドルとニコライ、4人の姉妹、娘2人)も「陰謀に加担した」と見なされ逮捕、強制収容所へ送られた。うち妻ニーナと弟のアレクサンドルとニコライの3人は銃殺刑に処せられた。母マウラと妹ソフィアは強制収容所内で死亡している。また12歳の末娘スベトラーナは自殺した。姉妹3人と娘1人が大粛清を生き延びた[8]

以降、翌年までの間、いわゆる“赤軍大粛清”が吹き荒れて赤軍の旅団長以上の者の45%が殺され、赤軍は壊滅状態に陥った。なおトゥハチェフスキー自身は、スターリンの死後、スターリン批判にともない名誉回復を受けた。1963年には、トゥハチェフスキーの肖像が描かれた切手がソ連で発行されている。
人物像

1935年、空挺部隊が参加した戦術演習を行い、
ロシア空挺軍の生みの親とされる。また、ロケット兵器研究所の設立を積極的に支持した。ロシア内戦史と軍事理論の多くの著作を有する。

死刑判決間際にはスターリンを実名で呼び捨てながら、党と人民の敵として弾劾するなどの剛毅さをみせた。

1921年クロンシュタットの反乱(ソビエト体制に対し、民主化を要求)では容赦のない攻撃を加えて鎮圧し、同年6月12日には、農民による反乱が起こっていたタンボフ州毒ガス使用による反乱鎮圧を命令するというような冷酷さもあった。

作曲家のショスタコーヴィチと交友関係があった。

大粛清を生き延びたスターリンの側近モロトフは、スターリンの死後、大粛清に多くの冤罪があったことを認めたが、トゥハチェフスキーについては冤罪ではないと主張し続けた。モロトフによると1936年終わり頃からトゥハチェフスキーはクーデタの準備を進めていたのだという。モロトフは「トゥハチェフスキー達がクーデターを実行する日まで我々は知っていた」と主張している。しかしその一方でそのクーデタ計画についてモロトフは「(トゥハチェフスキーの)気持ちはわかる。自分が逮捕されるのを恐れていたのだ」とも述べている[9]



脚注[脚注の使い方]
注釈^ 例えばハインツ・ヘーネは著書『SSの歴史 髑髏の結社』(フジ出版社)で、ハイドリヒが偽造文書作成を開始する以前の1936年末ごろにすでにソ連の秘密警察がトゥハチェフスキーの内偵を開始していることやトゥハチェフスキーに近いヴィターリ・プトナ将軍が逮捕されていること。また偽造文書がソ連に届いたとみられる時期の時事系列などから考察してスターリンの粛清の意思決定にハイドリヒやSDはほとんど影響していおらず、「ハイドリヒはソヴィエト秘密諜報組織のけちな手先にすぎない」とまで断言している[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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