ミハイル・カリーニン
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同年3月にスペイン風邪で死去したヤーコフ・スヴェルドロフの後任として全露中央執行委員会議長に就任する。1923年ソビエト社会主義共和国連邦が正式に発足すると、ソビエト連邦中央執行委員会議長として第1回(ロシア語版)ソビエト大会を取り仕切った。最高会議に改組されると、カリーニンは最高会議幹部会議長に選出され、死去する1946年までその地位を保った。1924年6月、党中央委員会政治局員候補に、1926年1月には政治局員に選出された。

その後1938年までに中央執行委員会議長に就任。同年1月17日、最高会議の選挙にて最高会議議長に選出されている。なお、最高会議においてスターリンは肩書なしの一議員[1]として振舞ったが、実質的に最高会議をコントロールする立場にあった。

レーニンはカリーニンを労働者、農民の事情に精通した人物と見なしていた。また、国家元首として週に1回限られた人数ではあったが一般市民と接見し、希望を聞くなどしていた。そのためボリシェヴィキの長老として好々爺然とした風貌もあいまって、大粛清が始まると、カリーニンには多数の請願が寄せられた。カリーニンはしばしば裁判に介入して無辜の人々を救済し、「愛しき父親、スターリン」に対して「親切な祖父、カリーニン」と親しまれた。一方で、大粛清やカティンの森事件の指令書に公式に署名している。大粛清において、スターリンは当時まで生存していた革命時代の元勲を自身の脅威と見なし、そのほとんどを追放・処刑していた。その中でカリーニンはソ連成立初期から実権の無い国家元首という名誉職にあって権力闘争から遠ざかっていたことから自身は粛清対象とはならずに命脈を保ったものの、夫人のエカテリーナ・カリーニナ(英語版)はトロツキストの容疑で強制収容所に送り込まれている。第二次世界大戦直後にエカテリーナは釈放されたが、その後も国内で軟禁状態に置かれ、スターリンの死の翌年であり、カリーニンの死後8年経った1954年にようやく名誉回復となった。

カリーニンは1946年6月3日に大腸癌でモスクワにて死去した。遺体はクレムリンの壁墓所に埋葬されている。

ヴォルガ川沿いの都市トヴェリ1931年から1990年までは「カリーニン」に改名された。また、1945年、ソ連に占領・編入された東プロイセンケーニヒスベルクカリーニングラードと改名され、ソ連・ロシア領となった東プロイセン北部はカリーニングラード州と命名された。
脚注^ 最高会議議長にカリーニン選出『大阪毎日新聞』(昭和13年1月19日夕刊)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p344 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年

公職
先代
ミハイル・ウラジーミルスキー(ロシア語版)
ロシア中央執行委員会議長代行 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国
中央執行委員会議長(ロシア語版)
1919年 - 1938年次代
アンドレイ・ジダーノフ
ロシア連邦共和国最高会議幹部会議長
先代
連邦の結成 ソビエト連邦中央執行委員会幹部会議長
ロシア連邦共和国代表
初代?1922年 - 1938年次代
自分自身
最高会議幹部会に改組
先代
自分自身
連邦中央執行委員会幹部会議長 ソビエト連邦最高会議幹部会議長
初代?1938年 - 1946年次代
ニコライ・シュヴェルニク










ソビエト連邦国家元首
ソビエト連邦中央執行委員会


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