ミネアポリス
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グレートプレーンズの農家が生産した穀物は鉄道でミネアポリスに運ばれ、市内34ヶ所の製粉所で加工された。1905年頃、ミネアポリスにおける小麦粉の生産量は全米の10%に達していた[14]。全盛期においては、市内の製粉所の1つ、ウォッシュバーン製粉所は1日に食パン1200万斤分の小麦粉を生産することができた[15] セント・アンソニー滝周辺、1915年

ミネアポリスにおける差別撤廃は1886年に始まっていた。この年、マーサ・リプリーは結婚している母親と未婚の母親の両方を収容する産科病院を設立した[16]世界恐慌で国の運命が一転した後、1934年には、その年に起こったトラック運転手のゼネスト(ミネアポリス・チームスター・ストライキ)を受けて、労働者の権利を認める法律が成立した[17]。生涯にわたり公民権運動を支えてきた当時の市長で、後に副大統領となったヒューバート・H・ハンフリーは、1946年に市の雇用機会均等条例の制定、およびマイノリティの側に立って仲裁にあたる人間関係委員会の設立に助力した[18]。ミネアポリスは早くから白人優位主義を排し、差別撤廃運動や公民権運動に参加し、1968年にアメリカン・インディアン・ムーブメント(AIM)を生んだ地ともなった[19][20]

1950年代から1960年代にかけては、都市再開発の一環としてダウンタウンの約4割、25ブロックにわたる200棟の建物を取り壊した。ゲートウェイ地区も取り壊された。そのときに取り壊された建物の中には、メトロポリタン・ビルディングなどの有名なものも多数あった。建物を守る策は失敗に終わったが、これを機に歴史的建造物保護への機運が高まった[21]

ヘネピン神父によるセント・アンソニー滝の発見

21世紀初頭のセント・アンソニー滝(2015年)

地理

ミネアポリスの歴史や経済成長とは切っても切り離せない、湖沼や小川、滝など水の多い地形は最終氷期に形成された。1万年ほど前にミネソタを覆っていた氷河が後退した際、地表は侵食されてミシシッピ河床やミネハハ河床ができ、近代のミネアポリスにとって重要な滝が形成された[22][23]。ミネアポリスとその周辺はほぼ平坦な地形で、その地下にはアーテシアン帯水層が広がっている。

ミネアポリスは北緯44度58分48秒 西経93度15分51秒 / 北緯44.98000度 西経93.26417度 / 44.98000; -93.26417に位置している。アメリカ合衆国統計局によると、ミネアポリス市は総面積151.3km2(58.4mi2)である。そのうち142.2km2(54.9mi2)が陸地で9.1km2(3.5mi2)が水域である。総面積の6.01%が水域となっている。水域のうちミシシッピ川と3本の小川の水はミネアポリスの水道水源となっている[24]。 また、市内には12の湖、3つの大きな沼、および5ヶ所の湿地がある[25]。市の標高は264mである。
気候

ミネアポリス
雨温図説明

123456789101112
  23 -5-14  20 -2-11  48 5-4  69 143  86 219  109 2615  102 2918  109 2717  79 2211  61 144  46 5-3  31 -3-11
気温(°C)
総降水量(mm)
出典: ⇒Weatherbase.com

インペリアル換算
123456789101112
  0.9 248  0.8 2913  1.9 4124  2.7 5837  3.4 6949  4.3 7959  4 8364  4.3 8062  3.1 7252  2.4 5840  1.8 4126  1.2 2712
気温(°F)
総降水量(in)

ミネアポリスの気候は中西部でも北のほうにあたる、アッパー・ミッドウェストと呼ばれる地域における典型的な気候である。乾燥して寒い冬と温暖で時折蒸し暑くなる夏に特徴付けられ、また気温の年較差が大きいという内陸性の気候である。冬は最高気温でも摂氏0度に満たない日が続き、夜は氷点下20度以下まで下がることも少なくない。北米の都市圏では、モントリオールオタワエドモントンカルガリーウィニペグなどと共に非常に寒冷な気候の都市である。夏は州北東部のダルースなどとは異なり気温がかなり上がり、日中には摂氏28度に達する。ケッペンの気候区分では亜寒帯湿潤気候(Dfa)に属する。降水は雪、みぞれ、氷、雨、雷雨、霧などさまざまな形を取るが、年間降水量は780mm程度で、月間降水量で見ると夏季は冬季の約5倍である。11月から3月にかけては月間20cm程度の降雪がある。ミネアポリスで観測された史上最高気温は摂氏42.2度(1936年7月)、史上最低気温は氷点下40.6度(1888年1月)である。最も降雪量が多かったのは1983年から1984年にかけての冬で、降雪量250cmを記録した[26]ミネアポリス・セントポール都市圏の平均気温は摂氏7度ほどで、アメリカ合衆国本土の主要都市圏の中では最も低い。下表はミネアポリスにおける平均気温と降水量を月別にまとめたものである。

ミネアポリスの気候[27]1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
平均気温()-9.1-6.20.48.615.120.423.221.816.79.40.9-6.87.9
降水量(mm)22.920.348.368.686.4109.2101.6109.278.761.045.730.5782.4

政治ミネアポリス市庁舎

ミネアポリスは民主党のミネソタ支部、ミネソタ民主農民労働党(DFL)が非常に強い勢力を持っている。ミネアポリス市議会は市を13地区に分け、各地区の代表1人ずつ、計13人の議員からなっている。2020年現在の市会議員は13人中12人がDFL所属議員であり、残る1人は環境保護主義者。議員の2人は黒人のトランスジェンダーリベラルな気風を有している[28]2018年現在の市長もDFL所属である。市長の権限はあまり強くないが、警察署長の任命権などを持つ。公園、図書館、課税、公営住宅に関しては準独立の委員会があり、予算・課税委員会の定める枠内で独自の予算を取っている[29][30][31][32]

一方、市民も独自の、強い影響力を持つ地域政府を形成している。1990年代に地域再活性化プログラム(Neighborhood Revitalization Program、NRP)の下、各地域はその活動を調整しながら行っている[33]。ミネアポリスは1つ以上の地域からなるコミュニティに分かれている。いくつかのエリアは「ビジネス協会」というニックネームで知られている[34][35]

環境の健全性および人間に与える影響の研究を基にしてアースデイの主催者たちが作成した「都市環境レポート」(Urban Environment Report)の2007年版では、ミネアポリスは全体で第9位、中規模の都市の中では第2位にランクされた[36]

初期のミネアポリス市政府は腐敗した時期があり、1900年代中盤まで犯罪が多発していた。1950年以降、市の人口は減少し続け、ダウンタウンの大部分は都市再開発や高速道路建設のために失われた。その結果、人口減少が続いていた1990年代までのミネアポリスは「瀕死で平和な」環境にあった[37]。1990年代に入り、経済が回復してくると、人口の回復に伴って殺人件数も増えた。ミネアポリス市警察はニューヨーク市で実績を上げていたコンピュータシステムを導入し、犯罪率の高い地域に警官を派遣するようにした結果、人種プロファイリングにあたるという批判を受けながらも、凶悪犯罪の発生率を低下させることに成功した。モーガン・クイットノー社の調査では、1994年の第1回調査で「全米の危険な都市」ワースト18位にランクされ、以後2001年まで毎年ワースト25圏内に入っていたが、2002年以降は入っていない[38]


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