ミネアポリスにおける差別撤廃は1886年に始まっていた。この年、マーサ・リプリーは結婚している母親と未婚の母親の両方を収容する産科病院を設立した[16]。世界恐慌で国の運命が一転した後、1934年には、その年に起こったトラック運転手のゼネスト(ミネアポリス・チームスター・ストライキ)を受けて、労働者の権利を認める法律が成立した[17]。生涯にわたり公民権運動を支えてきた当時の市長で、後に副大統領となったヒューバート・H・ハンフリーは、1946年に市の雇用機会均等条例の制定、およびマイノリティの側に立って仲裁にあたる人間関係委員会の設立に助力した[18]。ミネアポリスは早くから白人優位主義を排し、差別撤廃運動や公民権運動に参加し、1968年にアメリカン・インディアン・ムーブメント(AIM)を生んだ地ともなった[19][20]。
1950年代から1960年代にかけては、都市再開発の一環としてダウンタウンの約4割、25ブロックにわたる200棟の建物を取り壊した。ゲートウェイ地区も取り壊された。そのときに取り壊された建物の中には、メトロポリタン・ビルディングなどの有名なものも多数あった。建物を守る策は失敗に終わったが、これを機に歴史的建造物保護への機運が高まった[21]。 ミネアポリスの歴史や経済成長とは切っても切り離せない、湖沼や小川、滝など水の多い地形は最終氷期に形成された。1万年ほど前にミネソタを覆っていた氷河が後退した際、地表は侵食されてミシシッピ河床やミネハハ河床ができ、近代のミネアポリスにとって重要な滝が形成された[22][23]。ミネアポリスとその周辺はほぼ平坦な地形で、その地下にはアーテシアン帯水層が広がっている。 ミネアポリスは北緯44度58分48秒 西経93度15分51秒 / 北緯44.98000度 西経93.26417度 / 44.98000; -93.26417 123456789101112 インペリアル換算 ミネアポリスの気候は中西部でも北のほうにあたる、アッパー・ミッドウェストと呼ばれる地域における典型的な気候である。乾燥して寒い冬と温暖で時折蒸し暑くなる夏に特徴付けられ、また気温の年較差が大きいという内陸性の気候である。冬は最高気温でも摂氏0度に満たない日が続き、夜は氷点下20度以下まで下がることも少なくない。北米の都市圏では、モントリオール、オタワ、エドモントン、カルガリー、ウィニペグなどと共に非常に寒冷な気候の都市である。夏は州北東部のダルースなどとは異なり気温がかなり上がり、日中には摂氏28度に達する。ケッペンの気候区分では亜寒帯湿潤気候(Dfa)に属する。降水は雪、みぞれ、氷、雨、雷雨、霧などさまざまな形を取るが、年間降水量は780mm程度で、月間降水量で見ると夏季は冬季の約5倍である。11月から3月にかけては月間20cm程度の降雪がある。ミネアポリスで観測された史上最高気温は摂氏42.2度(1936年7月)、史上最低気温は氷点下40.6度(1888年1月)である。最も降雪量が多かったのは1983年から1984年にかけての冬で、降雪量250cmを記録した[26]。ミネアポリス・セントポール都市圏の平均気温は摂氏7度ほどで、アメリカ合衆国本土の主要都市圏の中では最も低い。下表はミネアポリスにおける平均気温と降水量を月別にまとめたものである。 ミネアポリスの気候[27]1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年 ミネアポリスは民主党のミネソタ支部、ミネソタ民主農民労働党(DFL
ヘネピン神父によるセント・アンソニー滝の発見
21世紀初頭のセント・アンソニー滝(2015年)
地理
気候
23 -5-14 20 -2-11 48 5-4 69 143 86 219 109 2615 102 2918 109 2717 79 2211 61 144 46 5-3 31 -3-11
気温(°C)
総降水量(mm)
出典: ⇒Weatherbase.com
123456789101112
0.9 248 0.8 2913 1.9 4124 2.7 5837 3.4 6949 4.3 7959 4 8364 4.3 8062 3.1 7252 2.4 5840 1.8 4126 1.2 2712
気温(°F)
総降水量(in)
平均気温(℃)-9.1-6.20.48.615.120.423.221.816.79.40.9-6.87.9
降水量(mm)22.920.348.368.686.4109.2101.6109.278.761.045.730.5782.4
政治ミネアポリス市庁舎
一方、市民も独自の、強い影響力を持つ地域政府を形成している。1990年代に地域再活性化プログラム(Neighborhood Revitalization Program、NRP)の下、各地域はその活動を調整しながら行っている[33]。ミネアポリスは1つ以上の地域からなるコミュニティに分かれている。いくつかのエリアは「ビジネス協会」というニックネームで知られている[34][35]。
環境の健全性および人間に与える影響の研究を基にしてアースデイの主催者たちが作成した「都市環境レポート」(Urban Environment Report)の2007年版では、ミネアポリスは全体で第9位、中規模の都市の中では第2位にランクされた[36]。
初期のミネアポリス市政府は腐敗した時期があり、1900年代中盤まで犯罪が多発していた。1950年以降、市の人口は減少し続け、ダウンタウンの大部分は都市再開発や高速道路建設のために失われた。その結果、人口減少が続いていた1990年代までのミネアポリスは「瀕死で平和な」環境にあった[37]。1990年代に入り、経済が回復してくると、人口の回復に伴って殺人件数も増えた。ミネアポリス市警察はニューヨーク市で実績を上げていたコンピュータシステムを導入し、犯罪率の高い地域に警官を派遣するようにした結果、人種プロファイリングにあたるという批判を受けながらも、凶悪犯罪の発生率を低下させることに成功した。モーガン・クイットノー社の調査では、1994年の第1回調査で「全米の危険な都市」ワースト18位にランクされ、以後2001年まで毎年ワースト25圏内に入っていたが、2002年以降は入っていない[38]。