1980年代に入ると大都市を中心に多くのミニシアターが開館した[3]。1981年開館の俳優座シネマテン、1982年ユーロスペース、1983年シネヴィヴァン六本木など、毎年のようにミニシアターがオープンし、新しい映画文化を生み出した[3][18]。1986年開館のシネマライズは、『ポンヌフの恋人』(1991年)、『トレインスポッティング』(1996年)、『アメリ』(2001年)など、若者向けのポップな映画を多く上映し[3]、CDショップと連動する形で渋谷の文化発信地として機能し、ミニシアターブームを牽引した[3]。ブームの定着とともに、ミニシアター向けの作品を扱う配給会社が増え、買い付け価格も上がり、ビジネスとしては難しいものになった[18]。
21世紀になるとシネコンでもミニシアター作品が上映されるようになり、さらには配給会社とシネコンとの力関係その他の事情により、「その地域ではシネコンでしか上映しないミニシアター作品」もあらわれるようになった。その結果、シネコンとミニシアターの棲み分けが崩れ、それが旧来のミニシアターの興行や経営に影響を与えるようになった。また若者のミニシアター離れも重なって、ミニシアター人気は下火になり[3]、2010年(平成20年)頃からミニシアターの閉館が続いた[20]。 ミニシアターでの上映によってブームとなったり、出演俳優や監督が人気を得たりするケースも多い[3]。1980年代中盤にヌーヴェルヴァーグの作品群や『ニュー・シネマ・パラダイス』『ベルリン・天使の詩』などのヨーロッパ映画が上映され、ミニシアターブームと呼ばれる現象が生まれた[3]。これらは『STUDIO VOICE』『Cut』などの雑誌がミニシアター系映画を大きく取り上げた影響も大きく[3]、ミニシアターブームは映画館やレコードショップ、雑誌などが一緒になって盛り上げたサブカルチャーでもあった[3]。1986年にシネセゾン渋谷で公開された『蜘蛛女のキス』と1987年にシネマスクエアとうきゅうで公開された『薔薇の名前』は本格的な本格的なミニシアターブームのきっかけになったともいわれる[18]。シネスイッチ銀座で1989年12月に日本で公開された『ニュー・シネマ・パラダイス』が、40週ロングランで打ち立てた3億6,000万の興行収入は、ミニシアター最大のヒット記録として未だ破られていない[18]。同じくシネスイッチ銀座が1988年に上映した『モーリス』はボーイズラブ人気の火付け役になった[3]。シネスイッチ銀座は、運営に参画していたフジテレビの映画製作のショーケースといった役割も担っており[18]、ここから『木村家の人びと』や『Love Letter』といったヒット作も生まれた[18]。ヴェルナー・ヘルツォークはシネマスクエアとうきゅうで紹介されメジャーになり[3]、ル・シネマで1991年に上映された『髪結いの亭主』では、監督のパトリス・ルコントが社会現象になり、映画オタクでない人も映画館に押し寄せた[3]。ユーロスペースが1993年に上映した『友だちのうちはどこ?』はイラン映画ブームを興し[3]、1995年にシネマライズが上映した『ムトゥ 踊るマハラジャ』は、インド映画ブームの火付け役となった[3]。配給側も女性客を当て込むことを考えるようになった[3]。岩波ホールで上映された『八月の鯨』は、若者層だけでなく年配層にまでミニシアターブームを広げるきっかけを作った[18]。『クライング・ゲーム』や『さらば、わが愛/覇王別姫』などもミニシアターから生まれたヒット作である[18]。この他、『TOMORROW 明日』『月光の夏』『午後の遺言状』『お引越し』『夏の庭 The Friends』『ヌードの夜』『トカレフ』『800 TWO LAP RUNNERS』などがミニシアターで初上映された[18]。ミニシアターによって人気を得た、または再評価された俳優や監督として、『バッファロー'66』のヴィンセント・ギャロやレオス・カラックス、ラス・メイヤー、加藤泰らが挙げられる[3]。またミニシアターの特徴としては、「こんな建物で映画を観るのか」と驚くような外観や都会的な雰囲気の館内インテリアを作り、上映作品のパンフレットを洗練されたものにしたことなどが挙げられる[3]。 1990年代にミニシアターが情報の発信基地だったことを印象付けるのがリチャード・レスター監督の1965年『ザ・ナック』のリバイバル上映である[3]。同作は1966年に日本公開されたものの、主演俳優が日本では人気が出ず、当時はほとんど話題にならなかったが、のちにピチカート・ファイヴの小西康陽とザ・コレクターズの加藤ひさしが自分たちで上映権を買い、1991年にシネヴィヴァン六本木で上映し、大ヒットした[21][22][23][24]。
功績と課題