ミッシー・エリオット
Missy Elliott
Missy Elliott 2015年
生誕Melissa Arnette Elliott
メリッサ・アーネット・エリオット
(1971-07-01) 1971年7月1日(52歳)
アメリカ合衆国 ヴァージニア州ポーツマス
別名ミスディミーナー (Misdemeanor)[1]
職業
ラッパー
歌手
ソングライター
音楽プロデューサー
活動期間1991年[2] -
音楽家経歴
ジャンル
Hip hop
R&B
レーベル
The Goldmind Inc.
East West
Elektra
Atlantic
共同作業者
702
Aaliyah
Busta Rhymes
Ciara
Fantasia
Janet Jackson
Jazmine Sullivan
Lil' Kim
Monica
Nicole Wray
Timbaland
Total
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公式サイト ⇒Official Website
メリッサ・アーネット・エリオット(Melissa Arnette Elliott、1971年7月1日 - )は、ミッシー・エリオット(Missy "Misdemeanor" Elliott)の芸名で知られ、グラミー賞を5度受賞するなど、音楽活動で数々の受賞歴をもつアメリカ合衆国のラッパー、歌手、音楽プロデューサー、女優である[3]。R&B歌手グループ「シスタ」の元メンバーである。アメリカで700万枚以上の売上記録で、RIAAによる6つのプラチナ認定を持つ唯一の女性ラッパーである[4][5]。
彼女は、『レイン』『ホット・ボーイズ』『ワン・ミニット・マン』『ワーク・イット』『パス・ザット・ダッチ』『ルーズ・コントロール』などの一連のヒットと多様なミュージック・ビデオで知られる[6]。盟友であるティンバランドと同様に広範囲に他のアーティストの為に働いた。ティンバランドとはR&B歌手ジニュワインのアルバム『Ginuwine...the Bachelor』の制作で協力した。プロデュースを手がけたアリーヤの1996年のアルバム『ワン・イン・ア・ミリオン』の成功の後、マイア、リル・キム、マライア・キャリー、キーシャ・コール、リル・モー、メアリー・J. ブライジ、ビヨンセ、ファンタジア・バリノ、ニコル・レイ、ジャズミン・サリヴァン、ブラック、ジャネット・ジャクソン、トゥイート、マグー、モニカ、MCライト、マドンナら多くのアーティストに楽曲を提供している[6] 。
2005年にはアディダスとのコラボレーションファッションブランド「Respect M.E.」を立ち上げる。 1971年7月1日、ミッシー・エリオットは父親ロニーと母親パトリシアとの間にメリッサ・アーネット・エリオットという名前で生を受ける。決して裕福でない家庭で、父親が母親に対し暴力を振るっていたのを見て育った。1987年、彼女が16歳の時ようやく両親は離婚したが、学生の彼女と無職の母親の2人だったため、生活はさらに苦しくなる。そんな幼少時代に彼女はランチ代を節約し、母親にプレゼントなどをして喜ばせていた。学校では性格も明るく、ホウキをマイクにしパフォーマンスを見せたりする人気者であった。成績もかなり上位だったらしい。この頃から苦しい生活から抜け出す為に当時から尊敬していたマイケル・ジャクソンのようなスターになることを目指し、歌や作詞作曲をし始める。 1989年、ミッシーは4人組女性グループ「シスタ(Sista)」を結成する。経緯は不明だが、ジョデシィのバックステージに潜り込み、パフォーマンスを披露することができた。それを見て気に入ったディヴァンテ・スウィングが彼女達をエレクトラに紹介し、シスタとしてのデビューとアルバム5枚制作できる契約が決定する。シングル「Brand New」がリリースされ、アルバム制作が順調に進んでいた。しかし、ディヴァンテとレーベル側にトラブルが生じ、アルバムはお蔵入りになる。結局、シスタまでも活動を終了してしまい、一気に振り出しへと戻される。ちなみにシスタとして世に出た作品は「Brand New」「It's Alright」のみ。しかし、ミッシーの楽曲を聴いたフェイス・エヴァンスが彼女の才能を見込んで、彼女をソングライターとして起用するよう働きかけ、702の「Steelo」を作詞する。その後、SWV、アディーナ・ハワード、トータル、ジェニュワイン、アリーヤなどに楽曲を提供していくようになる。そして、現在の相棒ともいえるティンバランドと出会う。彼とはディバンテの弟子だった頃に知り合い、1996年にアリーヤのセカンドアルバム『ワン・イン・ナ・ミリオン(One In A Million)』をティンバランドとミッシーが共に手掛ける。
バイオグラフィ
幼少時代
シスタ時代