ミック・ジャガー
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1985年、ビル・ラズウェルナイル・ロジャースのプロデュースにより制作された初のソロ・アルバム『シーズ・ザ・ボス』を発表した。このアルバムからは「ジャスト・アナザー・ナイト」がシングル・カットされた。同年、デヴィッド・ボウイとのデュエットによるチャリティ・シングル「ダンシング・イン・ザ・ストリート」(1985) も発表。86年にローリング・ストーンズ名義で、ボブ&アールをカバーした曲「ハーレム・シャッフル」を発表し、好評を博した。こうした一連の活動状況にリチャーズは強く反発し、ストーンズとして主だった活動は1986年の『ダーティ・ワーク』を除いて1989年まで行われなくなった。ジョーンズは2枚目のソロ・アルバム『プリミティヴ・クール』を1987年に発売し、大々的なツアーを実施した。ジャガーはこのツアーで初めて来日している。このときバンドに参加したリサ・フィッシャーやバーナード・ファウラーの2人は、以降ストーンズの活動にも関わる。

1989年に、ジャガーは数年間停滞していたストーンズの活動を再開した。アルバムとその中からのシングルカット、大規模な世界ツアーを行い、これまで実現していなかったストーンズの初日本公演も実現させた。ジャガーは、このツアーからストーンズの活動を中心にソロ活動を展開し、1993年に『ワンダーリング・スピリット』を発売した。95年には「ライク・ア・ローリング・ストーン」を発表[注釈 3]。2001年にレニー・クラヴィッツプロデューサーに迎えて制作された『ゴッデス・イン・ザ・ドアウェイ』といったアルバムを発売した。またジョージ・W・ブッシュが大統領だった時代に「スウィート・ネオコン」を発表してネオコンを皮肉った。イタリアのサン・シーロにて(2003年)

ジャガーは2002年の誕生日の叙勲(英語版)で「ポピュラー音楽に対する貢献」によってナイトに叙勲され[7]2003年12月12日に叙任式が行われた。この数年前より当時のトニー・ブレア首相からナイト授与の要請があったことが明かされている。ジャガーはストーンズやソロ活動を理由にこれを断っていたが、このとき(2003年当時)首相より「ローリング・ストーンズが40年という前人未到の活動を続ける今、あなた以上にこれ(ナイトの称号)を得るに相応しい人物はいない」といわれたという。しかし、ジャガーの受章に対しキース・リチャーズは「俺は勲章の授与なんて馬鹿げたことだと思ったよ。そんなことはストーンズらしくないぜ。だろ?俺はくそ忌々しい冠を付けてきざなアーミンの白い毛皮を羽織った誰かさんとステージに上がるなんてゴメンだね。俺はミックに言ってやったよ。『そいつは糞食らえの無価値な名誉だ』ってね」[1]と批判し、ジャガーは「キースはアイスクリームが欲しくて泣き叫ぶ子供。彼も本当は欲しいんだ」と反論している。2005年にストーンズのアルバム『ア・ビガー・バン』の録音やそれに続くツアーの準備を行う傍ら、ジャガーはその後も関係が続く元ユーリズミックスのデイヴ・スチュワートとともに映画「アルフィー」の音楽を手がけ流。2007年には「ア・ビガー・バン・ツアー」の終了に前後して、自身初となるソロ・ベスト・アルバム『ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー』を発表する。これにはそれまでソロ・アルバムには未収録だった他のアーティストとのデュエットしたものなどが収められている。

2011年にはキャリア50年目にして初の別バンド「スーパーヘヴィ」を結成。ジャガーの他に、先の映画「アルフィー」の制作の際に関わったデイヴ・ステュアートと、ジョス・ストーンダミアン・マーリーボブ・マーリーの息子)、A・R・ラフマーンという5人組。9月21日にアルバム『スーパーヘヴィ』を発売。さらにこの年、マルーン5がジャガーを題材にした楽曲「ムーブス・ライク・ジャガー(Moves like Jagger)」を発売し、ビルボード1位を獲得している。これに制作されたPVでは、60年代から00年代までジャガーが公演で着ていた衣装を再現したものを、数多くのモデルや俳優が纏い、ジャガーの真似をするというユニークなものとなっている。シアkし制作された当初のPVを閲覧した際、ジャガーが「自分の映像がフィーチャーされすぎているので、もっと減らしたほうが良い」とマルーン5側に助言した。またジャガーは映像で「ワイルド・ホーセズ」を、女性歌手フローレンス・ウェルチとデュエットした。

2014年、ストーンズの世界ツアーに参加。しかし3月、日本公演後行われるはずだったオーストラリアに到着後、自身の恋人で良きビジネス・パートナーでもあったローレン・スコットが自殺したという報告を聞き、茫然自失となった。メンバーは各自が「今はミックを支える時だ」と声明を出し、これに伴って予定されていたオーストラリアニュージーランド公演は延期されることが発表された。2001年頃にスコットと出会ったジャガーはその後交際するようになったといい、その後はメンバーの衣装も考案させるようになっていた。スコットは約9百万ドルと言われる全資産をジャガーに遺した。

スコットの死後、ジャガーはアメリカン・バレエ・シアターのバレリーナであるメラニー・ハムリックと恋人関係になり、2016年には73歳にしてメラニーとの間に8人目の子供を授かった。

2019年に、心臓弁の手術を受けるため、北米ツアーの延期を発表した[8]。2019年3月にジャガーは重度の大動脈弁狭窄症を指摘され、ニューヨークで経皮的大動脈弁置換術(Transcatheter Aortic Valve Implantation/Replacement:TAVR/TAVI)を受け順調に回復した[9]。大動脈弁狭窄症は開胸手術が選択されることが多かったが適応拡大に伴い、開胸手術低リスク患者であるジャガーにも経皮的大動脈弁置換術が施行された。
日本公演

1972年に、ストーンズ初の日本公演が翌年1月に日本武道館で行われることが発表され、入場券販売も行われたが、ジャガーが1969年の大麻不法所持による有罪判決が原因で入国拒否され、中止となった。日本のファンはストーンズの来日公演を17年後の1990年まで、日本武道館での公演は30年後の2003年まで待たなければならなかった。

ジャガー自身はストーンズとして来日する前に、ソロ・アルバム『プリミティヴ・クール』(Primitive Cool)の楽曲と共に1988年3月に単独で来日し、東京大阪名古屋で公演を開いた。そのうちの東京公演は竣工直後の東京ドームのこけら落とし公演であり、ジャガーは東京ドームで初めて公演を開催したミュージシャンとなった。『プリミティヴ・クール』にも参加したジェフ・ベックが帯同するという噂も流れたが、ベックがこの話を断ったため、ジョー・サトリアーニがリード・ギターを担当。日本人パーカショニストのツトム・ヤマシタが全公演、また東京公演の2日目ではティナ・ターナーがゲスト出演した。

Live "Mick Jagger in Japan."」(※全公演SS席6500円、S席5000円)3月15日・16日・18日・28日 大阪城ホール(28日は、19日に予定だった公演の本人の急病(風邪)による延期公演)
3月22日・23日 東京ドーム
3月25日・26日 名古屋市国際展示場(追加公演)

メンバー
ミック・ジャガー - ボーカルハーモニカギター
ジョー・サトリアーニ- ギター
ジミー・リップ - ギター
ダグ・ウィンビッシュ - ベース
サイモン・フィリップス - ドラムス
フィル・アシュリー - キーボード
リチャード・コットル - キーボード、サックス
リサ・フィッシャー - バッキング・ボーカル
ほか、ツトム・ヤマシタ - ゲスト・パーカッション
ティナ・ターナー - ゲスト・ボーカル(東京公演2日目のみ)
資産

2007年4月、米経済誌フォーブス誌が「過去25年間でもっとも高くついたセレブリティの離婚」のランキングを発表し、ミック・ジャガーとジェリー・ホールの離婚にともなう財産分与金が1500 - 2500万ドルで10位にランクインした[10]2009年4月、英サンデー・タイムズ紙が「英音楽界での長者番付」を発表し、推定資産が1億9000万ポンドだったことがわかった。ミック・ジャガーは経済危機の影響で16%の資産を失った[11]


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