ミズーリ州
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ミシシッピ文化コリンズビル(英語版)のカホキア遺跡にあるモンクス=マウンド(英語版) (Monk's Mound) 。

ヨーロッパ人がミズーリ州となった地域を探検し開拓する前の数千年間、インディアンが居住していた。河川沿いの考古学調査により、7,000年以上にわたって継続して人類が住んでいたことが示されている。西暦1000年以前から複合的なミシシッピ文化が発生し、現在のセントルイス市郊外のミシシッピ川対岸のカホキア(現在のイリノイ州コリンズビル(英語版))に、地域の政治的中心を作り出していた。その大きな都市には数千人の住人が住み、巨大なマウンドと呼ばれる土盛り構造物を作っていたことで知られている。このマウンドは宗教、政治および社会的な目的があり、円錐台形の頂部は壇をなしていた。カホキアは五大湖メキシコ湾にまで及ぶ地域交易ネットワークの中心だった。この文化は1400年までに衰退し、住人はヨーロッパ人が到着するずっと前に地域を離れていた。セントルイス市には前史時代のマウンドが多く残されていたため、ヨーロッパ系アメリカ人がマウンドシティと呼んだこともあったが、そのマウンドの多くは都市開発のために失われてきた。ミシシッピ文化のマウンドはミシシッピ川中流域やオハイオ川流域、さらに南東部上流域に残っている。
フランス領ルイジアナ詳細は「ヌーベルフランス」および「黒人法(フランス語版、英語版)」を参照

この地域に入った最初のヨーロッパ人開拓者はフランス系カナダ人であり、セントルイスから約1時間南のセントジェネビーブ(英語版)に最初の開拓地を作った。彼らは1750年ごろにイリノイ・カントリーから移ってきていた。ミシシッピ川東岸にあった開拓村では、土地が痩せてきており、増加する人口を養うに足る平地がなかった。セントジェネビーブは農業中心として繁栄するようになり、小麦、トウモロコシおよびタバコを生産して、余剰分を下流のルイジアナに船で運んだ。この農産物はルイジアナ、特にニューオーリンズ市の生き残りのために重要なものになった。1762年フォンテーヌブロー条約によってヌエバ・エスパーニャ副王領とされた[4]「ミズーリ川を下る毛皮交易業者」ジョージ・ケイレブ・ビンガム画

それからまもなく、1764年にニューオーリンズ市から来たフランス人によってセントルイスの町が設立され、1764年から1803年までミシシッピ川西岸の流域はその北限までフランス領ルイジアナと呼ばれた。スペイン人がセントルイスに現れたのは1767年9月だった。セントルイスはミズーリ川やミシシッピ川流域に広がるインディアンとの毛皮交易中心となり、その後長い間地域経済を支配する要素となった。交易会社と提携している者たちはセントルイスから毛皮を船積みしてニューオーリンズ市まで運び、そこからヨーロッパの市場に送った。その見返りにさまざまな商品が業者に渡り、それがインディアンとの交易に使われた。毛皮交易とそれに関連する事業でセントルイスは初期の金融中心となり、それで得た富によって瀟洒な家を建て、贅沢品を輸入する者もいた。セントルイスはミシシッピ川とイリノイ川が合流する地点に近く、農作地域からの産品も取り扱うことができた。ミシシッピ川による輸送と交易は地域経済と一体のものとなり、セントルイスは地域最初の主要都市として、特に蒸気船が発明され川の交易が増えたあとは、著しい発展を遂げた。
ルイジアナ買収

1800年、ナポレオン・ボナパルトは、サンイルデフォンソ条約によってスペイン領だったルイジアナをフランスに取り戻した。ただし、この条約は秘密にしておかれた。ルイジアナは1803年11月30日にフランスに移管されるまで、名目上スペイン領だった。これはルイジアナがアメリカ合衆国に移譲されるちょうど3週間前のことだった。

アメリカ合衆国による1803年のルイジアナ買収地の一部だったミズーリ州は、19世紀に西に向かう探検隊や開拓者の出発点になったため、「西部への玄関」という呼び名がついた。セントルイスの西にあるセントチャールズは、1804年にミシシッピ川から出発し、西部領土を探検し、太平洋に至ったルイス・クラーク探検隊の出発点かつ帰還目標地となった。セントルイスはその後長い間、西に向かう開拓者隊の重要な供給点となっていた。1812年、ニューマドリード地震で揺り動かされたが、まだ人口が希薄だったため被害は軽かった。

ミズーリ州西部の開拓者の多くがアッパーサウスから移ってきたため、労働力としてアフリカ人奴隷を連れてきており、その文化と奴隷制度の継続を望んだ。ミズーリ川沿いの17郡に入った者が多く、そこはプランテーションによる農業を可能にする平地であり、リトル・ディキシーと呼ばれるようになった。
ミズーリ妥協詳細は「ミズーリ妥協」、「メイソン=ディクソン線」、および「ミズーリ妥協線」を参照

1821年、ミズーリはミズーリ妥協によって奴隷州として州昇格を認められ、暫定州都はセントチャールズに置かれた。1826年、州都はやはりミズーリ川沿いのジェファーソンシティに移され、恒久的なものになった。当初、州の西側境界はコーズマスを通る子午線で定義されたため直線だった[5]。コーズマスはカンザス川がミズーリ川に合流する地点であり、その後、川がこの定義を動かしてきた。この直線はオーセージ境界線と呼ばれている[6]。1835年、インディアンから土地を買収したプラット買収によって、州北西隅に領域が付け加えられ、カンザス川より北側にあるミズーリ川が州境になった。この領土追加によってミズーリ州の面積は約66,500平方マイル(172,000平方キロメートル)となり、バージニア州(65,000平方マイル、168,000平方キロメートル)に代わって当時の国内最大の州になった(当時のバージニア州は現在のウェストバージニア州を含んでいた)[7]

1830年代初期、モルモン教徒が北部州やカナダから移ってきて、インディペンデンス近くとその北に入植し始めた。昔からの開拓者(おもに南部出身)とモルモン教徒(おもに北部出身)の間に宗教と奴隷制度をめぐって紛争が起こった。1838年にはモルモン戦争(英語版)が起きた。1839年、リルバーン・ボッグス知事が「根絶命令」を出したこともあり、昔からの開拓者がモルモン教徒をミズーリ州から追い出し、その土地を没収した。
奴隷制度に関する紛争詳細は「アメリカ合衆国の歴史 (1849-1865)」、「1850年協定」、「カンザス・ネブラスカ法」、および「血を流すカンザス」を参照

奴隷制度に関する紛争は州と準州の境界で緊張感を高めた。1838年から1839年、いわゆるハニーランドに関するアイオワ州との境界論争では、両州が州境に民兵隊を招集することになった。移民が増加し、1830年代から1860年代にかけて、ミズーリ州の人口は10年ごとに倍増していった。新参者の大半はアメリカ生まれだが、1840年代後半と1850年代にはアイルランドドイツから多くの移民が到着した。彼らは大半がカトリック教徒で、それまでプロテスタントが大半だった州内で独自の宗教習慣を作り上げた。アイルランド人は飢饉と弾圧から、ドイツ人は革命の騒動から逃れてきており、奴隷制度には同調的でなかった。都市に入った多くの移民は地域の、のちには州全体のカトリック教会と学校のネットワークを作り上げた。19世紀のドイツ人移民はミズーリ川沿いでワイン産業を、セントルイス市ではビール産業を始めた。

南北戦争以前の農業は自給自足農業が大半だった。奴隷を所有する農夫の大半は、奴隷の数が5人未満だった。農園主は、歴史家の定義で奴隷数20人以上であり、ミズーリ川沿い、ミズーリ州中央部のリトル・ディキシーと呼ばれた郡部に集中していた。奴隷制度に関わる緊張感は、おもに州と国の未来に関わっていた。1860年、州人口は118万2,012人となり、奴隷はその10パーセント足らずだった[8]。ミシシッピ川に沿った農地や低地集落を洪水から守るために、1860年まで総延長140マイル(220キロ)の堤防が建設されていた[9]
南北戦争詳細は「南北戦争」および「エイブラハム・リンカーン」を参照

1861年、南部州のアメリカ合衆国からの脱退が始まり、ミズーリ州議会は脱退のための特別会議に送る代議員の選挙を要求した。その会議では、断固としてアメリカ合衆国に残留することが投票で決められた。南部寄りの州知事クレイボーン・F・ジャクソンは、訓練のためにセントルイスのキャンプに集めていた数百名規模の民兵隊の動員を命じた。この動きに刺激された北軍の将軍ナサニエル・ライアンはキャンプを取り囲み、民兵隊に降伏を強いた。ライアンの部隊はほとんど英語を話せないドイツ人移民で構成されていたが、捕虜達に町の通りを行進させるよう指示した。兵士たちは捕虜の周りに集まった敵意を持つ市民集団に発砲した。のちにセントルイス虐殺(St. Louis Massacre)と呼ばれることになるこの事件で、武装していない捕虜に加えてセントルイス市民の男女子供が殺された。

この事件は州内の南軍支持感情を高めた。ジャクソン知事は、脱退会議の議長を務めたスターリング・プライスを、新しいミズーリ州軍の長に指名した。


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