1959年7月号(第37号)に結城昌治の『寒中水泳』(同誌の第1回短編コンテスト第1位入選作)を掲載するまでは、海外作品ばかりを掲載したものであった。その後も、日本人作家の作品はたまに載る程度で、掲載された作品はほとんどが海外作品である。その代わり、1959年から翌年にかけて4冊を刊行した「別冊クイーンズマガジン」(1959年秋号、1960年冬号、春号、夏号)には日本人作家の作品が多数掲載された。
なお、1959年の都筑の退社により、1960年1月号から編集長は小泉太郎(生島治郎)となる。小泉も1962年に作家になるため退社し、1963年1月号から編集長は常盤新平となった。
『ミステリマガジン』『HAYAKAWA'S ミステリ・マガジン』1966年3月号
1966年1月号から『HAYAKAWA'S ミステリ・マガジン』に改名。1977年に本国版『EQMM』との特約関係が解消されたが(『EQMM』との特約契約は光文社に移った[2])、以降も海外作品を中心とした誌面作りを続けており、2006年には創刊50周年を迎えた。現在の誌名『ミステリマガジン』になった時期は不明。
なお、1969年に常盤新平が退社し、1969年8月号から編集長は太田博(各務三郎)に。太田は1973年4月号にバロネス・オルツィの短編を誤って「半分だけ掲載」してしまい、その責任をとって退社。その後は、1973年7月号から長島良三が編集長に。だが長島もすぐに退社したため、それまでポケミスを担当していた菅野圀彦が、1975年から1993年までの20年近くにわたって編集長を務める。
その後の編集長は、「歌って踊れる編集長」として名物だった竹内祐一が1996年までつとめたが、書籍編集部に移った。その後は、村上和久が1998年まで、その後千田宏之が2001年まで、2002年からは今井進が、2007年4月号からは千田宏之が再度編集長に。2009年4月号からは小塚麻衣子が、初の女性編集長に。2013年10月号から清水直樹(前『S-Fマガジン』編集長)が編集長。
2015年5月号(3月発売)以降は隔月刊化され、奇数月25日の発売となる[3]。 日本版『EQMM』は、1977年末に光文社から隔月刊誌『EQ』(1978年1月号)として復活した。この創刊号には、フレデリック・ダネイと松本清張の対談が掲載された。 『EQ』誌は『ハヤカワ・ミステリマガジン』と同様に海外作品を中心にした雑誌だった。1999年7月号(第130号)をもって休刊。同年6月号の「休刊のお知らせ」では、本国版『EQMM』に訳載不可の作品が増えたことを、休刊の理由に挙げている。 2000年9月創刊のミステリ誌。光文社より年4回刊行。本格ミステリ大賞の選評が毎年6月発売号に掲載される。
歴代編集長
0 田中潤司
1 都筑道夫 1956年7月 - 1959年12月
2 小泉太郎 1960年1月 - 1962年12月
3 常盤新平 1963年1月 - 1969年7月
4 太田博 1969年8月 - 1973年6月
5 長島良三 1973年7月 - 1975年5月
6 菅野圀彦 1975年6月 - 1993年3月
7 竹内祐一 1993年4月 - 1996年12月
8 村上和久 1997年1月 - 1998年12月
9 千田宏之 1999年1月 - 2001年12月
10 今井進 2002年1月 - 2007年3月
11 千田宏之(再) 2007年4月 - 2009年3月
12 小塚麻衣子 2009年4月 - 2013年9月
13 清水直樹 2013年10月 -
光文社
『EQ』
『EQ Extra ジャーロ』詳細は「ジャーロ (文芸誌)」を参照
脚注[脚注の使い方]^ ただし、都筑の当初の肩書きは編集長ではなく編集主任だった。田中潤二が創刊号刊行前に辞職したのも編集長という肩書きを求めたところ、社長の早川清に「うちには田村隆一という編集長がいる。編集長が二人あったらおかしい」と断られたのが理由という。以上の経緯については「失踪? 名探偵≠探索せよ」(『生島治郎の誘導訊問 眠れる意識を狙撃せよ』)参照。
^ 小鷹信光『マイ・ミステリー』(読売新聞社)P.53
^ ⇒“〈ミステリマガジン〉〈SFマガジン〉〈悲劇喜劇〉隔月刊化のお知らせ”. ハヤカワ・オンライン. (2014年11月26日). ⇒http://www.hayakawa-online.co.jp/new/2014-11-26-211853.html
関連項目
アガサ・クリスティー賞(賞の選考過程、選評を早川書房『ミステリマガジン』誌に毎次掲載)
外部リンクウィキメディア・コモンズには、エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジンに関連するカテゴリがあります。
Ellery Queen's Mystery Magazine 公式サイト