ミスターどん兵衛
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山城、川谷の共演なら、観客はカップうどんを連想し、映画自体が商品の宣伝になる[21]。山城と川谷のコンビCMで「どん兵衛」の売上げが倍増になったといわれ[3]きつねどん兵衛だけで年間売上げ200億円だったため[6]、大した金額ではなかった[6]

1979年4月に岡田東映社長が東映の新しい興行形態として東映シネマサーキット(TCC)の発足を発表し[27][28][29][30][31]、「長年のやくざ路線で、社内の企画は発想が古く、現代にマッチするプロデューサーやライターが不足している。アメリカでも若い名もない監督(ジョン・ランディスを指す[27])やプロデューサーがスターを使わないで映画を作り、ヒットさせている時代だから、門戸を開放して若手が出てこられるチャンスを与えようというわけだ。勿論若手だけでなく伊藤俊也に撮りたい映画があるなら、半分出資しておやんなさい、山城新伍がインスタント食品会社と一緒に金を出して監督作品を作るという話もあるからそれもよかろうし、京都の映画村も企画を持っているから、リスクを負担してやれということ。映画館主だって東映映画が当たらないと文句を言うなら企画して作ればいい。ATGは専門館が少ないから一億円の配収を上げるのは難しいが、ウチなら二億円以上も可能だ」と説明した[27][29]。TCCは、東映グループ作品、独立プロとの折半作品、独立プロへの全額出資作品の三種類を東映の配給チェーンに乗せるというプロジェクトで[27]、ATGは独立プロとの折半作品を基本としていたため[27]、TCCはATGの娯楽作品版ともいわれた[27][31]。この岡田の話から『ミスターどん兵衛』は1979年春には東映に企画が持ち込まれており、日清食品が製作費を全額出資しなくても東映が出資を予定し『下落合焼とりムービー』や『狂い咲きサンダーロード』などと同じように当初はTCCチェーンでの上映予定だったことが分かる。
配給

1970年後半に日本でもヒットした『ケンタッキー・フライド・ムービー』『Mr.Boo!ミスター・ブー』を捩り、はじめは『ミスター・ムービー』というタイトルを考えていたが[1][32]、それなら宣伝にと居直り、タイトルを『ミスターどん兵衛』にした[1][21]。このタナボタぶりに日頃、資金調達に走りまわる他のプロデューサーたちを羨ましがらせた[22]。また当時大作一本立て時代が来て、東映は特に岡田社長が外部資本との提携と外注作品の導入を強く打ち出したため[33][34][35]、年間50本作っていたブロックブッキングが崩壊し、助監督が監督に昇進するチャンスがほとんどなくなっていた[4]。山城は「昨日まで一緒に麻雀していた助監督連中が口を聞かなくなった」と話している[4]。山城は「流行遅れにならないように、六ヶ月先のギャグを計算している。東映の配給をアテにしているが、完成したところで競売にかけて配給会社を決めてもいい」と鼻息荒かったが[8]、スポンサーがはっきり決まったことで東映が配給を引き受けた[26]。製作の公表は1979年8月末[22]。『下落合焼とりムービー』が1979年6月に公開され、興行成績は不明だが東映は「この企画が出た背景には『Mr.Boo!ミスター・ブー』の大ヒットもあり、今だと面白い喜劇ができるのではというヨミがあります。山城のプラスアルファーに期待しています」と話した[22]
脚本

脚本は山城の親友・内藤誠梶間俊一[24]。内藤は「ホンを書いてる途中に恩師・木村毅が亡くなったので梶間に手伝ってもらった」と話している[24]。アイデアは山城が出し、内藤が脚本にまとめ、のちに梶間が加わった[10]。ゲスト出演が多いため、内藤は現場で台詞を書くこともあった[10]
撮影

当初は1979年10月1日クランクイン映画の日のある同年12月公開を目指していたが変更[21][22]。正式に映画の製作が決定したのは1979年10月末で[8]、東映の撮影所が空くのを待って撮影に入った。山城は東映の京都東京の両方の撮影所で活躍した人だが、川谷はほぼ京都[36]。しかし撮影は東映東京撮影所で行われた。当時、東映京都撮影所は、太秦映画村で大賑わいだったが、東京撮影所はかなり過疎っていた。「役者の生理というのはね、とにかく早く撮ってもらいたいんですよ」と役者の心情をよく知る山城は早撮りで、待ち時間ほぼなし[10]。朝9時撮影開始、お昼1時間休憩を挟み、午後4時撮影終了[10]。撮影日数17日で撮り上げた[4]。1980年4月頃の公開を目指した[8]
監督&キャスティング

山城新伍は「帝王シリーズ」などを観たテレビプロデューサーから、トルコ風呂(ソープランド)の突撃ルポなどの仕事を受けてテレビバラエティに進出し[14][37]、ここで見せた話芸に注目した『独占!男の時間』(東京12チャンネル(現・テレビ東京1975年1977年)のプロデューサーに同番組のMCに抜擢され[14]、博識と下ネタ混じりの歯切れのいい辛口トークで新しいMC像を作った俳優出身のMCのハシリであった[38][39]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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