ミシシッピ州
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紀元前1万年ごろ、パレオ・インディアンが今日アメリカ合衆国南部と呼ばれる地域に入ってきた[3]。彼等は狩猟採集民であり、更新世末には絶滅した大型動物を狩っていた。その後の数千年間で、ウッドランド文化やミシシッピ文化が生まれ、豊かで複雑な農耕社会を発展させ、余剰物が交易に発展した。どちらの文化でもマウンドを構築した。ミシシッピ文化のマウンドは大きくて複雑であり、人々の交易圏は大陸の北から南まで広がっていた。マウンドは政治と宗教の概念を表しており、現在でもミシシッピ川やオハイオ川流域に残っている。『シェファンクト近くのチョクトー族村』、フランソア・ベルナール画、1869年、ハーバード大学ピーボディ博物館。描かれている女性はバスケットを作るためにトウの皮を染めている

アメリカ合衆国南東部におけるミシシッピ文化の子孫にはチカソー族やチョクトー族がいた。現在のミシシッピ州となった地域に住んだその他の部族としてナチェズ族、ヤズー族、ビロクシ族などがいた。

この地域に入った最初のヨーロッパ人探検家はスペイン人エルナンド・デ・ソトであり、1504年の新世界への2回目の遠征で、州北東部を通った。1699年4月、フランス人開拓者がオーシャンスプリングスに最初の開拓地フォートモーリパスを設立した。ここにはピエール・ル・モワン・ディバヴィーユが入植した。1716年、フランスはミシシッピ川沿いにナチェズの町(ロザリー砦)を設立した。この町が中心地となり交易拠点となった。フランスはこの広大な領土を「ヌーベルフランス」と呼んだ。当時スペインはメキシコ湾岸、現在のアラバマ州南部とフロリダ州の領有主張を続けていた。

その後の数十年間、この地域はスペイン、フランス、イギリスの各植民地政府が支配した。植民地人は労働力としてアフリカ人奴隷を輸入した。フランスとスペインの統治下では、自由有色人階級が発展し、その大半はヨーロッパ人と奴隷化された女性とその子供達の多人種子孫だった。初期のフランスとスペインの植民地人は主に男性だった。ヨーロッパ人女性が開拓地に入ってくるようになったとしても、男性はヨーロッパ人女性と結婚する前後でアフリカ人の子孫と関係を持った。ヨーロッパ人男性はその多人種の子供達に教育を受けさせ、商売の訓練を受けさせ、時には資産を残した。奴隷の場合は母親と子供達を解放することもあった。この社会資本を得た自由有色人は職人になり、時には教育のある商人や土地所有者となって、ヨーロッパ人とフランスやスペインの開拓地にいる奴隷化されたアフリカ人の間で第3の階級を形成した。ただし、ニューオーリンズほど大きな社会にはならなかった。イギリスがフレンチ・インディアン戦争(ヨーロッパでは七年戦争)に勝利した後、1763年のパリ条約によってフランスはこの地域をイギリスに渡した。プッシュマタハ、チョクトー族酋長

アメリカ独立戦争が終わると、この地域は新生アメリカ合衆国の領土になった。1798年4月7日にはミシシッピ準州が組織化された。その領域はジョージア州サウスカロライナ州が権利放棄したものだった。その後アメリカ合衆国とスペインが領有論争を続けていた領土を2回に分けて含むようになった。1800年から1830年ごろ、アメリカ合衆国はインディアンからヨーロッパ系アメリカ人の入植のために土地を購入した(ドークススタンド条約)。入植者は南部州からの移住者が多かった[4]。多くの奴隷所有者が奴隷を連れて行き、あるいはニューオーリンズなど国内の奴隷市場で奴隷を購入した。ミシシッピ州を含むディープサウスには100万人近い奴隷が輸入され、国内の移住によってプランテーション所有者が過剰な奴隷を売ったアップランドサウスでは奴隷の家族が別れ別れになった。南部人は白人至上主義の見解に立ち、奴隷法を強め、自由黒人の権利を制限した。デブローの前景、1840年建設、アメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されている
ミシシッピ州昇格後

1817年12月10日、ミシシッピはアメリカ合衆国20番目の州に昇格した。デイビッド・ホームズが初代州知事に選出された[5]。川が主要な輸送路だったので、川に沿った地域にプランテーションが開発された。初期の町もここに発展し、商品や作物を市場に運ぶ蒸気船で結ばれた。後背地はほとんど未開なままに残されていた[6]

1850年代は綿花が王様であり、ミシシッピのプランテーション所有者、特にミシシッピ・デルタブラックベルト地域の所有者は土壌の肥沃さ、国際市場での綿花の高値、さらに奴隷という資産で裕福になった。そこから得られる利潤を使ってさらに綿花栽培用の土地と奴隷を購入した。プランテーション所有者は数十万人の奴隷労働者に依存し、また白人の間にも富の不均衡が発生したので、州の政治においても、アメリカ合衆国からの脱退を支持したときにも強い影響力を発揮した。

1860年時点で奴隷人口は436,631人であり、州人口791,305人の55%になっていた。自由有色人は1,000人に満たなかった[7]。南北戦争前は比較的人口が少なかったので、土地と村は主要輸送路となる川沿いでのみ開発された。ミシシッピデルタ低地の90%はフロンティアであり、未開だった[6]。州は開発のためにより多くの入植者を必要としていた。

1861年1月9日、ミシシッピ州はアメリカ合衆国からの脱退を宣言した2番目の州となり、アメリカ連合国設立の一員になった。南北戦争中、北軍南軍が重要な補給路であるミシシッピ川の支配権を巡って激しく戦った。北軍のユリシーズ・グラント将軍がビックスバーグを長期間包囲し、1864年にはミシシッピ川を完全に支配した。


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