ミシシッピ州
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しかし、1890年代のさらなる農業不況が綿花価格を下げ、多くのアフリカ系アメリカ人農夫は負債の支払のために土地を売り、汗水垂らして開拓した土地を失うことになった[6]

白人議員が1890年に新憲法を作り、実質的に大半の黒人と貧乏白人の多くから選挙権を取り上げる有権者制限条項を設けた。その後の数年間で推計10万人の黒人と5万人の白人が有権者名簿から外された[9]。19世紀後半にアフリカ系アメリカ人が信用を拡大しようとしても、政治的な影響力の無さが災いした。ジム・クロウ法に加え、1890年代からは白人が白人至上主義を植え付けようとしてリンチが行われることが増え、ワタミゾウムシの蔓延で綿花の収量が落ち、さらには1912年と1913年の大洪水が続いたことで、多くのアフリカ系アメリカ人にとって危機的な状態になった。白人プランテーション所有者は投票箱を支配し、信用も拡大して、ミシシッピ・デルタ低地の所有範囲を拡大し、また新しい鉄道の利点を生かすことができた[6]

1900年時点で黒人人口は州人口の50%以上だった。これが1910年には、黒人農夫の過半数がデルタの土地を失い、小作農になった。1920年では、奴隷解放後の第3世代となったアフリカ系アメリカ人の大半が、再度貧乏に直面する土地無し労働者になっていた[6]。1913年ごろからは、グレートマイグレーションと呼ばれる動きの中で、数万人ものアフリカ系アメリカ人がミシシッピ州を離れ、北部のセントルイスシカゴデトロイトフィラデルフィアニューヨークなど工業化された都市に移住した。彼等は職を求め、子供達には良い教育機会、選挙権、人種差別の比較的少ない自由な社会、さらにより良い生活を求めた。1910年から1940年まで続いた移住時代に、機会を頑として閉ざされた社会を捨てた。ミシシッピ州を離れる移住者の大半は鉄道で直接北のシカゴに行き、元の隣人の近くに居を定めることが多かった。児童労働者、ミシシッピ州パスクリスチャン、1911年、ルイス・ハイン撮影

20世紀初期、州内で幾つかの産業が興ったが、職は概して白人に限られ、労働者には児童も含まれていた。職が無いことで南部の白人もシカゴのような都市に移住し雇用機会を求めた。ミシシッピ州は農業に依存していたが、機械化が進んで農業労働者も職を失った。クラークスデール近くの安酒場でダンスをする人々、1939年、マリオン・ポスト・ウォルコット撮影リーランドに近いアルドリッジ・プランテーションのオーナーと労働者の子供、1937年6月、ドロシア・ラング撮影

南部からの第二次グレートマイグレーションは1940年代に始まり、1970年まで続いた。この時代にほぼ50万人がミシシッピ州を離れ、その4分の3は黒人だった。20世紀前半の全国でアフリカ系アメリカ人は急速に都会に入り、多くは工場で働いた。この第二次グレートマイグレーションの行き先にはアメリカ合衆国西部、特にカリフォルニア州が追加された。カリフォルニア州では防衛産業の発展でアフリカ系アメリカ人に高い賃金を払うことができた。

ミシシッピ州のアフリカ系アメリカ人と白人は、豊かで真にアメリカ的な音楽の伝統を築き上げた。ゴスペル音楽カントリー・ミュージックジャズブルースロックンロールが生まれた。その全てがミシシッピ州のミュージシャンによって創成され、広められ、大きく発展した。ミュージシャンの多くはアフリカ系アメリカ人であり、ミシシッピ・デルタ低地の出身だった。多くのミュージシャンはシカゴなど北部にも音楽を伝え、シカゴのジャズやブルースの中心を作り上げた。

グレートマイグレーションの間に多くのアフリカ系アメリカ人が離れていったので、1930年代以降は少数派に変わった。1960年での構成比は42%だった[10]。1890年憲法の条項に従い、白人が管理し、差別する有権者登録は継続しており、アフリカ系アメリカ人の大半は投票できなかった。公民権運動の時代、ミシシッピ州では黒人教会が中心となって黒人に有権者登録を行わせる教育活動の中心になった。全国の学生や社会組織者がミシシッピ州に来て、黒人の有権者登録を支援し、自由の学校を設立した。白人政治家大半の抵抗と厳しい態度(ミシシッピ州主権委員会の創設など)、多くの州民が白人市民の委員会に参加したこと、さらにクー・クラックス・クランと同調者の暴力戦術が重なり、1960年代のミシシッピ州は反動の州という評判が立った[11]。州内のアフリカ系アメリカ人は1960年代半ばにその選挙権の行使を始め、連邦政府が1964年と1965年に公民権法を成立させた後は、人種差別と憲法による選挙権規制を止めさせた。

1966年、ミシシッピ州は禁酒法を州全体で公式に撤廃した最後の州になった。それ以前には密造者が持ち込む違法アルコール飲料に課税していた。ポール・ジョンソン州知事が撤廃を進め、保安官が「ジャクソン・カントリクラブで毎年開催されるジュニアリーグのマルディグラ舞踏会を襲撃し、上層階級や州の高官が驚いて見ている前で、酒類棚を割って開かせ、シャンペーンを運び去った。」[12]

ミシシッピ州は1987年に人種間結婚の禁止法を撤廃した。これはアメリカ合衆国最高裁判所が1967年に違憲と裁定していた。1989年には人種差別時代の人頭税も撤廃した。1995年には、1865年に奴隷制度を廃止したアメリカ合衆国憲法修正第13条を象徴的に批准した。2009年、州議会は、1964年に法制化されたが、1967年にアメリカ合衆国最高裁判所が違憲と裁定していた人種差別的公民権法を撤廃する法案を可決した。共和党知事ヘイリー・バーバーがこの法に署名して成立した。

1969年8月17日、カテゴリー5のハリケーン・カミュがミシシッピ州海岸を遅い、死者248人、総額15億ドルの被害を出させた。2005年8月29日、カテゴリーは3だったが、ハリケーン・カトリーナが上陸し、ルイジアナ州からアラバマ州まで90マイル (145 km) におよぶメキシコ湾岸に破壊的な被害を及ぼした。
地理

参照:ミシシッピ州の郡一覧ミシシッピ州の図アシュランドに近いボトムランドの硬木湿地

ミシシッピ州はテネシー州と北部、アラバマ州と東部、ルイジアナ州およびメキシコ湾と南部、ならびにルイジアナ州およびアーカンソー州ミシシッピ川を超えて)と西部で隣接している。


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