ミシシッピ州
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後背地はほとんど未開なままに残されていた[6]

1850年代は綿花が王様であり、ミシシッピのプランテーション所有者、特にミシシッピ・デルタブラックベルト地域の所有者は土壌の肥沃さ、国際市場での綿花の高値、さらに奴隷という資産で裕福になった。そこから得られる利潤を使ってさらに綿花栽培用の土地と奴隷を購入した。プランテーション所有者は数十万人の奴隷労働者に依存し、また白人の間にも富の不均衡が発生したので、州の政治においても、アメリカ合衆国からの脱退を支持したときにも強い影響力を発揮した。

1860年時点で奴隷人口は436,631人であり、州人口791,305人の55%になっていた。自由有色人は1,000人に満たなかった[7]。南北戦争前は比較的人口が少なかったので、土地と村は主要輸送路となる川沿いでのみ開発された。ミシシッピデルタ低地の90%はフロンティアであり、未開だった[6]。州は開発のためにより多くの入植者を必要としていた。

1861年1月9日、ミシシッピ州はアメリカ合衆国からの脱退を宣言した2番目の州となり、アメリカ連合国設立の一員になった。南北戦争中、北軍南軍が重要な補給路であるミシシッピ川の支配権を巡って激しく戦った。北軍のユリシーズ・グラント将軍がビックスバーグを長期間包囲し、1864年にはミシシッピ川を完全に支配した。コリンスの戦い後の南軍兵の死体、1862年10月5日撮影

レコンストラクション時代、1868年に最初のミシシッピ州憲法制定会議が開かれ、黒人も白人も代議員となり、その後22年間有効となる憲法草案を策定した。この会議の代議員100人の内の17人が黒人であり、このような政治組織としては初めてのものになった。そのうちの数人は自由人だったが、他の者は北部から移ってきた解放奴隷だった。32の郡では黒人人口が多数派だったが、その代表には白人も黒人も選んだ。この会議は普通選挙を採択し、選挙権や被選挙権に対する資産資格を排除したが、この修正は貧乏白人にとっても恩恵だった。また州初の公共教育体系を作り、資産の所有と継承では人種差別を禁じた。さらに旅行中の公民権制限を禁じた[8]。レコンストラクションの条件に従い、ミシシッピ州は1870年2月23日に合衆国に復帰した。

19世紀後半のジム・クロウ法および1890年の新憲法の成立によって、ミシシッピ州はディープサウスに典型的な形で、事実上黒人の選挙権を取り上げ、その歴史は複雑なものになった。ミシシッピ・デルタには南北戦争以前に開発されていなかった肥沃な土地があったので、土地の90%は未開なままだった。戦後、数万人の移住者がこの地域に入ってきた。土地を切りはらい、木材を売ることで金を儲け、土地所有者になった。新しい農夫には解放奴隷が含まれ、高い比率で土地所有者になった。1870年代から1880年代、多くの黒人農夫が土地の取得に成功した[6]
20世紀

20世紀に変わったころ、デルタで土地を所有する農夫の3分の2はアフリカ系アメリカ人だった。その多くは綿花価格が低落する難しい時代を、その負債を増やすことでやり過ごした。南北戦争後の時代は綿花の価格が下がり続けた。しかし、1890年代のさらなる農業不況が綿花価格を下げ、多くのアフリカ系アメリカ人農夫は負債の支払のために土地を売り、汗水垂らして開拓した土地を失うことになった[6]

白人議員が1890年に新憲法を作り、実質的に大半の黒人と貧乏白人の多くから選挙権を取り上げる有権者制限条項を設けた。その後の数年間で推計10万人の黒人と5万人の白人が有権者名簿から外された[9]。19世紀後半にアフリカ系アメリカ人が信用を拡大しようとしても、政治的な影響力の無さが災いした。ジム・クロウ法に加え、1890年代からは白人が白人至上主義を植え付けようとしてリンチが行われることが増え、ワタミゾウムシの蔓延で綿花の収量が落ち、さらには1912年と1913年の大洪水が続いたことで、多くのアフリカ系アメリカ人にとって危機的な状態になった。白人プランテーション所有者は投票箱を支配し、信用も拡大して、ミシシッピ・デルタ低地の所有範囲を拡大し、また新しい鉄道の利点を生かすことができた[6]

1900年時点で黒人人口は州人口の50%以上だった。これが1910年には、黒人農夫の過半数がデルタの土地を失い、小作農になった。1920年では、奴隷解放後の第3世代となったアフリカ系アメリカ人の大半が、再度貧乏に直面する土地無し労働者になっていた[6]。1913年ごろからは、グレートマイグレーションと呼ばれる動きの中で、数万人ものアフリカ系アメリカ人がミシシッピ州を離れ、北部のセントルイスシカゴデトロイトフィラデルフィアニューヨークなど工業化された都市に移住した。彼等は職を求め、子供達には良い教育機会、選挙権、人種差別の比較的少ない自由な社会、さらにより良い生活を求めた。1910年から1940年まで続いた移住時代に、機会を頑として閉ざされた社会を捨てた。ミシシッピ州を離れる移住者の大半は鉄道で直接北のシカゴに行き、元の隣人の近くに居を定めることが多かった。児童労働者、ミシシッピ州パスクリスチャン、1911年、ルイス・ハイン撮影

20世紀初期、州内で幾つかの産業が興ったが、職は概して白人に限られ、労働者には児童も含まれていた。職が無いことで南部の白人もシカゴのような都市に移住し雇用機会を求めた。ミシシッピ州は農業に依存していたが、機械化が進んで農業労働者も職を失った。クラークスデール近くの安酒場でダンスをする人々、1939年、マリオン・ポスト・ウォルコット撮影リーランドに近いアルドリッジ・プランテーションのオーナーと労働者の子供、1937年6月、ドロシア・ラング撮影

南部からの第二次グレートマイグレーションは1940年代に始まり、1970年まで続いた。この時代にほぼ50万人がミシシッピ州を離れ、その4分の3は黒人だった。20世紀前半の全国でアフリカ系アメリカ人は急速に都会に入り、多くは工場で働いた。この第二次グレートマイグレーションの行き先にはアメリカ合衆国西部、特にカリフォルニア州が追加された。カリフォルニア州では防衛産業の発展でアフリカ系アメリカ人に高い賃金を払うことができた。

ミシシッピ州のアフリカ系アメリカ人と白人は、豊かで真にアメリカ的な音楽の伝統を築き上げた。ゴスペル音楽カントリー・ミュージックジャズブルースロックンロールが生まれた。


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