ミシシッピ州
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これにはアーカンソー州の幾つかの郡も含められた[16]

1912年から1913年に起きた洪水はミシシッピ州北西部を襲い、堤防地区にも大きな打撃を与えた。地域的な被害が出たことと、ミシシッピ川堤防協会が洪水制御のためのロビー活動を行ったことで、1917年と1923年には連邦政府と地元堤防地区で2対1の連邦マッチングファンドを出させる全国法を成立させることになった。アメリカ合衆国が第一次世界大戦に参入したことで堤防建設のためのファンドにも障害ができたが、ファンドの二次ラウンドで、ミシシッピ・ヤズー・デルタの平均堤防高さは1920年代に22フィート (6.6 m) になった[17]。現在の科学者は堤防が逆に洪水も増したと考えており、1927年のミシシッピ大洪水では深刻な被害を受けた。資産、家畜、穀物など被害総額は数百万ドルに上った。被害の大きかったのはワシントン郡ボリバー郡などデルタ下流地域だった[18]

ミシシッピ川に関する科学的知識が増えたとしても、上流での開発や堤防の建設によって何度か厳しい洪水が起きた。現在の科学者は、土地を広く切り開き、堤防を造ったことで、湿地や森林の自然保護能力を取り去り、川の性質そのものを変えて流れを強めたと理解するようになった。州政府と連邦政府は、当初あった川の生態系とうまく付き合うために、生息域の回復への最善手段を求めて苦慮し続けている。
人口動態ミシシッピ州の人口密度図
人口

人口推移
年人口%±
1800
7,600?
181031,306311.9%
182075,448141.0%
1830136,62181.1%
1840375,651175.0%
1850606,52661.5%
1860791,30530.5%
1870827,9224.6%
18801,131,59736.7%
18901,289,60014.0%
19001,551,27020.3%
19101,797,11415.8%
19201,790,618?0.4%
19302,009,82112.2%
19402,183,7968.7%
19502,178,914?0.2%
19602,178,1410.0%
19702,216,9121.8%
19802,520,63813.7%
19902,573,2162.1%
20002,844,65810.5%
20102,967,2974.3%
20202,961,279?0.2%
Source: 1910?2010[19]

2020年国勢調査時点のミシシッピ州の人口は2,961,279人となっており、2010年国勢調査時点から6,018人、0.20%減少していた[1]。2000年から2012年の変化を見ると、混血の増加率が70%と国内でも高い方だった。

総人口はそれほど変化していないが、総じて若く、変化の幾らかは出生によるものである。過去には白人によって課された人種差別の時代からの遺産として単一民族を選んでいた者達が、1つ以上の人種出身であることを選ぶようになったことを明らかに反映している。人口統計学者のウィリアム・フライは「ミシシッピ州においては南部から変化していると思う」と記した[20]インディアン強制移住後のミシシッピ州において、多数派は黒人(アフリカ系アメリカ人、その多くはヨーロッパ人の先祖も持っていた)と白人(主にヨーロッパ系アメリカ人)だった。やはり人口統計学者のマシュー・スニップはこの変化について「ある意味で、彼等は過去に抑圧されていた人種的遺産というものをより正確に描き出すようになっている」とコメントしている[20]

アフリカ系アメリカ人は人口の約37%を構成しており、その中には19世紀に地域のプランテーションを開発するために運ばれてきた祖先を持っている者がいる[21]。ミシシッピ州はブラックベルトに属し、黒人多数派の時代が南北戦争前から1930年代まで続いた。その後の黒人大移動により、40万人近いアフリカ系アメリカ人が北部、中西部および西部へ新たな機会を求めて移住した。

ミシシッピ州の人口重心はLenaの町がある、リーク郡となっている[22]。2010年国勢調査に拠れば、州内の同性カップルの約33%が1人以上の子供を持っており、この比率は他州よりも高い[23]
人種的構成および祖先

2010年国勢調査に拠れば、ミシシッピ州の人種による人口構成は次のようになっている[24]

白人 (a)59.1%
黒人 (a)37.0%
アメリカインディアン、およびアラスカのインディアン、エスキモー(a)0.5%
アジア人 (a)0.9%
太平洋諸島人 (a)0.1%未満
混血1.1%
ヒスパニックないしラティーノ (b)2.7%
白人 (ヒスパニックとラティーノを除く)58.0%
(a) 1つの人種だけを回答した者だけの割合。(b) ヒスパニックは人種概念ではないため、同時にいずれかの人種に属する。

1830年9月27日、ダンシングラビット・クリーク条約がアメリカ合衆国政府とチョクトー族の間で結ばれた。チョクトー族はミシシッピ州とアラバマ州にあった先祖伝来の土地の売却に合意した。これと引き替えに補償金とインディアン準州(現在のオクラホマ州)の居留地への移住が待っていた。これによりヨーロッパ系アメリカ人開拓者への土地公売が解禁された。条約の第14条では、州内に残留するチョクトー族はアメリカ市民になることを認めている。チェロキー族に続いて非ヨーロッパ系民族となることを選んだ2つめの部族だった[25][26]。今日、約9,500人のチョクトー族が、ネショバ郡ニュートン郡リーク郡ジョーンズ郡に住んでいる。連邦政府から認められた部族には、チョクトー族ミシシッピ・バンドがある。

南北戦争以前から1930年代まで、アフリカ系アメリカ人がミシシッピ州人口の過半数を占めていた。1940年代以降、黒人大移動により、36万人以上のアフリカ系アメリカ人が州を離れ、北部、中西部および西部へ新たな機会を求めて移住し、アフリカ系アメリカ人人口は大きく減少した。

それでも2010年時点でミシシッピ州におけるアフリカ系アメリカ人構成比は国内最高である。近年、その構成比は高くなりつつあり、これは白人よりも平均年齢が若いことが寄与している(生涯出産数はほぼ等しい)。州内公共教育学区のほぼ全ては、アフリカ系アメリカ人の生徒が多数となっているが、ヨーロッパ系アメリカ人が多数であることも多い。北西部のヤズー・デルタ、南西部および中央部ではアフリカ系アメリカ人が多数派である。これらの地域では、南北戦争後の19世紀にアフリカ系アメリカ人が農夫として土地を所有し、あるいは綿花プランテーションや農場で働いた歴史があった[27]

2000年に州内で申告された祖先による構成比は以下の通りだった

アメリカ人 (14.2%)

アイルランド系 (6.9%)


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