西暦800年ごろから、ミシシッピ河谷においてミシシッピ文化と呼ばれるインディアン文化が広まった。この文化はマウンド(墳丘)を築くことを特徴とし、トウモロコシの農耕を基盤とする文化で、首長制国家を各地に築いていた。この文化のもっとも著名な遺跡はセントルイス近郊にあるカホキアで、12世紀から13世紀にかけて栄え、最盛期の人口は推定で1万人ほどに達していた。カホキアは1450年ごろに崩壊するが、ミシシッピ文化自体は変化しながらヨーロッパ人の到達まで継続していた。 ミシシッピ川に到達した記録が残っている最初のヨーロッパ人はスペイン人のコンキスタドールであるエルナンド・デ・ソトである。彼は1541年5月8日に、アメリカ南部の征服行中にミシシッピ川に到達した。彼の探検隊はミシシッピ川下流域を探検したが、1542年5月21日にミシシッピ河畔でソトは死亡した。死去した場所は、現在のミシシッピ州デソト郡などいくつかの説がある。生き残りの隊員たちはミシシッピ川を下ってメキシコ湾に出、スペイン領にたどり着いた。この探検隊はいくつかのミシシッピ文化の国家を崩壊させたが、それよりミシシッピ文化に致命的な影響を与えたのは彼らの持ち込んだ伝染病であり、これによってミシシッピ文化の多くの首長制国家は崩壊し、人口も大きく減少した。 デ・ソト探検隊ののち、100年以上の間ミシシッピ川流域にはほとんどヨーロッパ人はやってこなかった。次にミシシッピ流域へとやってきたのは、北の五大湖水系を制したフランス人だった。1670年代にはフランス人は五大湖沿岸の探検をほぼ終え、その過程でミシガン湖畔において海にまで流れる巨大な川の話を聞きつけた。1673年にはルイ・ジョリエが五大湖からミシシッピ川に到達し、ミシシッピ川とアーカンザス川の合流地点にまで到達して引き返した[7]。次いで1682年4月9日にはロベール=カブリエ・ド・ラ・サールがミシシッピを下ってメキシコ湾にまで到達し[8]、これにより北アメリカ大陸中央部を南北に貫く幹線水路が開通した。ラ・サールは1684年に、今度はメキシコ湾からミシシッピ川をさかのぼろうとして上陸地点を誤り、テキサスに上陸してミシシッピ川にたどり着く途中で仲間割れで殺されたが、生き残りはなんとかイリノイからケベックへとたどり着いた。こうして五大湖水系とミシシッピ川水系はつながり、この水系を拠点としてフランスは広大なヌーベルフランス植民地を建設した。ミシシッピ川水系はヌーベルフランス内のフランス領ルイジアナ植民地となったが、しかし、フランス領ルイジアナは面的には広い地域だったものの人口は非常に少なく、ミシシッピ川沿いには交易所や砦が点在するにとどまっていた。それでも、1718年には河口にヌーヴェル・オルレアン(ニューオーリンズ)の街が建設され、1722年にはフランス領ルイジアナの首都となり、ミシシッピ川交易とメキシコ湾海運の結節点として栄えるようになった。このほか、セントルイスなど、このフランス領時代に建設された拠点で現在も都市として存続している場所はミシシッピ川に点在している。 フランスはミズーリ川やオハイオ川などを含めたミシシッピ川水系全域の領有権を主張しており、五大湖水系とつながることで、北アメリカ大陸東岸のイギリス植民地の発展方向をふさぐ形となっていた。このため両国間には小競り合いが絶えず、北米植民地戦争と呼ばれる戦争を断続的に100年以上続けたが、結局最後の北米植民地戦争であるフレンチ・インディアン戦争においてフランスは大敗し、1763年のパリ条約でフランスはミシシッピ川の東側とカナダをイギリスに割譲、ミシシッピ川の西側をスペインに割譲し、北米大陸の領土を完全に喪失した。こうしてミシシッピ川はイギリス植民地とスペイン植民地の境界となったが、1775年に始まったアメリカ独立戦争においてイギリスは敗北し、1783年9月3日のパリ条約によってミシシッピ川東岸は独立したアメリカ合衆国へと譲渡されることとなった。 1792年には、バージニア州のアパラチア山脈以西がケンタッキー州として分離し、アメリカ第15番目の州となった。これはミシシッピ川流域における初めての州の新設であり、ついで1796年にはアメリカ合衆国政府に属する南西部領土が州に昇格してテネシー州となった。 一方、ミシシッピ川の西岸は1800年にスペインからフランスに再び割譲され、フランス領ルイジアナが復活した。しかし1803年、アメリカはフランスからルイジアナを1500万ドルで購入し、ミシシッピ川の両岸はアメリカ合衆国の領土となった。このルイジアナ買収によってアメリカの領土は2倍となり、また西方への道が開けたことでアメリカの西部開拓に一層拍車がかかることとなった。
ヨーロッパ人による探検と植民地化
アメリカ領時代