ミシシッピ川
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バトンルージュを通過したのち、ミシシッピ川はルイジアナ州最大の都市であるニューオーリンズを通り、そこから約160km南東のミシシッピ川デルタ(英語版)(ミシシッピ州北西部の内陸沖積平野ミシシッピ・デルタとは異なる)にあるプラークミンズ郡パイロットタウン(英語版)からメキシコ湾に注ぐ。ミシシッピ・デルタは南東に向けてメキシコ湾に大きく突出しており、鳥趾状三角州という独特な三角州となっていることで知られている[5]。ミシシッピ川デルタは都市からの地下水の取水やデルタそれ自体の重みによって沈降を続けており、さらにメキシコ湾の潮流による浸食や、上流各地に建設されたダムなどによる土砂流入の減少によって縮小を続けており、デルタ上に位置するニューオーリンズもそれによって地盤沈下を続けている。この地盤沈下は、2005年8月にハリケーン・カトリーナがニューオーリンズに来襲した際に多大な被害をもたらす原因となった[6]
歴史
ヨーロッパ人到来以前カホキア遺跡のマウンド

西暦800年ごろから、ミシシッピ河谷においてミシシッピ文化と呼ばれるインディアン文化が広まった。この文化はマウンド(墳丘)を築くことを特徴とし、トウモロコシの農耕を基盤とする文化で、首長制国家を各地に築いていた。この文化のもっとも著名な遺跡はセントルイス近郊にあるカホキアで、12世紀から13世紀にかけて栄え、最盛期の人口は推定で1万人ほどに達していた。カホキアは1450年ごろに崩壊するが、ミシシッピ文化自体は変化しながらヨーロッパ人の到達まで継続していた。
ヨーロッパ人による探検と植民地化

ミシシッピ川に到達した記録が残っている最初のヨーロッパ人はスペイン人コンキスタドールであるエルナンド・デ・ソトである。彼は1541年5月8日に、アメリカ南部の征服行中にミシシッピ川に到達した。彼の探検隊はミシシッピ川下流域を探検したが、1542年5月21日にミシシッピ河畔でソトは死亡した。死去した場所は、現在のミシシッピ州デソト郡などいくつかの説がある。生き残りの隊員たちはミシシッピ川を下ってメキシコ湾に出、スペイン領にたどり着いた。この探検隊はいくつかのミシシッピ文化の国家を崩壊させたが、それよりミシシッピ文化に致命的な影響を与えたのは彼らの持ち込んだ伝染病であり、これによってミシシッピ文化の多くの首長制国家は崩壊し、人口も大きく減少した。

デ・ソト探検隊ののち、100年以上の間ミシシッピ川流域にはほとんどヨーロッパ人はやってこなかった。次にミシシッピ流域へとやってきたのは、北の五大湖水系を制したフランス人だった。1670年代にはフランス人は五大湖沿岸の探検をほぼ終え、その過程でミシガン湖畔において海にまで流れる巨大な川の話を聞きつけた。1673年にはルイ・ジョリエが五大湖からミシシッピ川に到達し、ミシシッピ川とアーカンザス川の合流地点にまで到達して引き返した[7]。次いで1682年4月9日にはロベール=カブリエ・ド・ラ・サールがミシシッピを下ってメキシコ湾にまで到達し[8]、これにより北アメリカ大陸中央部を南北に貫く幹線水路が開通した。ラ・サールは1684年に、今度はメキシコ湾からミシシッピ川をさかのぼろうとして上陸地点を誤り、テキサスに上陸してミシシッピ川にたどり着く途中で仲間割れで殺されたが、生き残りはなんとかイリノイからケベックへとたどり着いた。こうして五大湖水系とミシシッピ川水系はつながり、この水系を拠点としてフランスは広大なヌーベルフランス植民地を建設した。ミシシッピ川水系はヌーベルフランス内のフランス領ルイジアナ植民地となったが、しかし、フランス領ルイジアナは面的には広い地域だったものの人口は非常に少なく、ミシシッピ川沿いには交易所や砦が点在するにとどまっていた。それでも、1718年には河口にヌーヴェル・オルレアン(ニューオーリンズ)の街が建設され、1722年にはフランス領ルイジアナの首都となり、ミシシッピ川交易とメキシコ湾海運の結節点として栄えるようになった。このほか、セントルイスなど、このフランス領時代に建設された拠点で現在も都市として存続している場所はミシシッピ川に点在している。

フランスはミズーリ川やオハイオ川などを含めたミシシッピ川水系全域の領有権を主張しており、五大湖水系とつながることで、北アメリカ大陸東岸のイギリス植民地の発展方向をふさぐ形となっていた。このため両国間には小競り合いが絶えず、北米植民地戦争と呼ばれる戦争を断続的に100年以上続けたが、結局最後の北米植民地戦争であるフレンチ・インディアン戦争においてフランスは大敗し、1763年パリ条約でフランスはミシシッピ川の東側とカナダをイギリスに割譲、ミシシッピ川の西側をスペインに割譲し、北米大陸の領土を完全に喪失した。こうしてミシシッピ川はイギリス植民地とスペイン植民地の境界となったが、1775年に始まったアメリカ独立戦争においてイギリスは敗北し、1783年9月3日パリ条約によってミシシッピ川東岸は独立したアメリカ合衆国へと譲渡されることとなった。
アメリカ領時代

1792年には、バージニア州のアパラチア山脈以西がケンタッキー州として分離し、アメリカ第15番目の州となった。これはミシシッピ川流域における初めての州の新設であり、ついで1796年にはアメリカ合衆国政府に属する南西部領土が州に昇格してテネシー州となった。

一方、ミシシッピ川の西岸は1800年にスペインからフランスに再び割譲され、フランス領ルイジアナが復活した。しかし1803年、アメリカはフランスからルイジアナを1500万ドルで購入し、ミシシッピ川の両岸はアメリカ合衆国の領土となった。このルイジアナ買収によってアメリカの領土は2倍となり、また西方への道が開けたことでアメリカの西部開拓に一層拍車がかかることとなった。ルイジアナを購入したとはいえ、ミシシッピ川西方の状況についてはアメリカ東海岸ではほとんど知られておらず、このためルイジアナ買収を行った第三代大統領トーマス・ジェファーソン1804年メリウェザー・ルイスウィリアム・クラークに率いられた探検隊をミシシッピ西方へと派遣した。このルイス・クラーク探検隊はミシシッピ川とミズーリ川の合流点にあり、セントルイスの対岸に位置するウッド・リヴァー基地から出発して支流のミズーリ川沿いに西へと進み[9]太平洋にまで到達した。この探検によりアメリカはミシシッピ西方の詳細な情報を入手し、以後の西部開拓の大きな助けとなった。それ以降も流域の探検は積極的に進められ、1820年にはミシガン準州知事ルイス・カスミシガン準州北部(現在のミネソタ州域)に探検隊を派遣してミシシッピ川の源流を探検させ、現在のミネソタ州中北部に位置するカス湖がミシシッピ川の源流であるとした。その後、1832年にはヘンリー・スクールクラフトによって再探検が行われ、カス湖の近傍にあるイタスカ湖がミシシッピ川の源流であると突き止められた。

ミシシッピ川両岸がアメリカ合衆国領となると、沿岸にはアメリカ東部から次々と開拓者が押し寄せ、一定の開拓が進んだ土地は続々と州に昇格していった。1812年に旧フランス領ルイジアナの南端にあたるオーリンズ準州の大半がルイジアナ州として連邦に加盟したのを皮切りに、ミシシッピ州(1817年)、イリノイ州(1818年)、ミズーリ州(1821年)、アーカンソー州(1836年)、アイオワ州(1846年)、ウィスコンシン州(1848年)が成立していき、1858年ミネソタ州加盟をもってミシシッピ川本流沿いはすべてアメリカの州に属することとなった。ニューオーリンズのミシシッピ川を走る蒸気船ナチェズ号

ミシシッピ川は植民初期から輸送路として活用されてきたが、ミシシッピ川は流れが強く、沿岸の曳舟道も整備されていなかったために船を上流へ引き上げることは困難だったため、フラットボート(平底船)などの簡易な船を上流で作り、下流まで荷物を運搬したのち荷物を売却し、船も材木として下流で分解し売却するといった片道利用が主流だった。ミシシッピ川の利用が格段に拡大したのは蒸気船の開発以降のことである。外輪の蒸気船が航行する姿は、アメリカ発展史における象徴的存在で、1811年にはミシシッピ川初の蒸気船であるニューオーリンズ号がオハイオ川からミシシッピ川へと就航し[10]、以後急速に蒸気船の利用が進んだ。動力付きの船である蒸気船によって、船舶が遡行できないという難点が解消されたためである。初期の蒸気船は外輪船であり、波の影響を受けないミシシッピ川では外洋と違って外輪船が効果を発揮しやすいこともこの急速な普及の理由の一つだった。一方、簡単に作成して船舶ごと売却できる平底船も、とくに木材の簡単に入手できる開拓地などでは人気があり、1840年代まで盛んに利用され続けていた。1831年にはエイブラハム・リンカーンが平底船の船員としてイリノイ州ニューセイラムからニューオーリンズまで旅し、ここで奴隷市場を目撃している。


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