ミシガン州
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ミシガン州となった地域に最初のヨーロッパ人探検者が入ったとき、オタワ族オジブワ族(フランス語でチッペワ族)、ポタワトミ族などアルゴンキン語を話すインディアンが住んでいた。その中ではオジブワ族が最大であり、人口は25,000人から35,000人と推計されている。

オジブワ族はアッパー半島など州北部に拠点があり、他にオンタリオ州北部、ウイスコンシン州北部、マニトバ州南部、ミネソタ州北部と北中部に住んでいた。オタワ族は主に州北部のマキナック海峡より南と西部、ポタワトミ族は主に州南西部に住んでいた。これら3つの部族は3つの火の評議会と呼ばれる緩やかな連合を形成しており、平和的に共存していた。その他の部族としては、南部と東部にマスクーテン族、メノミニー族、マイアミ族サック族、フォックス族、ワイアンドット族が住んでいた。ワイアンドット族はフランス語ではヒューロン族で知られる。
17世紀マルケット神父とインディアン、ヴィルヘルムランプレヒト画、1869年

フランス人の山人と木樵が17世紀にミシガンを探検し入植した。この地域に入った最初のヨーロッパ人は1622年のエティエンヌ・ブルレによる遠征隊だった。ヨーロッパ人による最初の恒久的開拓地としては、1868年にカトリックの布教拠点としてマルケット神父スーセントマリーに設立したものがあった[3]。1671年から1675年の伝導所はセントイグナスやマーケットなど辺鄙な土地に造られた。イエズス会の伝道者は地域のインディアンから受け入れられ、それほどの困難さや敵対も無かった。1679年、ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールが現在のセントジョセフの地にマイアミ砦を建設した。
18世紀ギローム・ド・ライルが1718年に作った地図

1701年、フランス人探検家で軍隊の士官だったアントワヌ・ド・ラ・モテ・キャディラックが、エリー湖セントクレア湖の間にあるデトロイト川と呼ばれた水路沿いにデトロイトのポンチャートレイン砦(海峡のポンチャートレイン砦)を設立した。キャディラックはフランス王ルイ14世の宰相であるポンチャートレイン伯爵ルイ・フェリポーを説得して、恒久的な開拓地を作ればフランスが五大湖北部支配を強化し、イギリスの野望を挫くものと見ていた。

キャディラックが連れて行った数百人の兵士と労働者が1アルパン[4][5](約0.85エーカー、3,400 m2、1辺が200フィート (61 m) の正方形に相当)の土地を囲む砦を建設し、ポンチャートレイン砦と名付けた。キャディラックの妻マリー・テレーゼ・ギュヨンが間もなくデトロイトに移動してきて、ミシガンの原野に入植した最初期のヨーロッパ系女性となった。この町は直ぐに毛皮交易と積み出しのための主要拠点となった。同年、「エグリス・ド・サンタン」(セントアン教会)が設立された。この建物は現在存在していないが、同名の会派は今日でも活動を続けている。キャディラックは1710年から1716年にルイジアナのフランス総督を務めるためにこの地を離れた。フランスが毛皮交易を確固としたものにするための動きがフォックス戦争に繋がった。この戦争はメスクワキ族(フォックス族)とその同盟部族と、フランスおよびその同盟部族の間で争われた。

これと同じ時期にフランスはマキナック海峡にあるミチリマキナック砦を強化し、魅力ある毛皮交易帝国の支配を試みた。18世紀半ばまでにフランスは現在のナイルズやスーセントマリーに設立した砦を支配していたが、領域の残り部分の大半はヨーロッパ人が入っていない状況だった。

1660年からフランス支配が終わるまで、ミシガンはヌーベルフランス王室領に属した[注 1]フレンチ・インディアン戦争(1754年-1763年)のエイブラハム平原の戦い後の1759年、ケベック市がイギリス軍に陥落した。イギリスはこのことで七年戦争の勝利を確実にした。1763年のパリ条約により、ミシガンを含むミシシッピ川以東のヌーベルフランスはイギリスに譲渡された[6]

アメリカ独立戦争のとき、デトロイトはイギリス軍の重要な供給拠点だった。住人の大半はフランス系カナダ人かインディアンであり、その多くは以前にフランスと同盟していた。独立戦争を終わらせるパリ条約で、イギリスはミシシッピ川以東の地をアメリカ合衆国に割譲したが、この条約で使われた不正確な地図と不明確な言語による領域定義のために、イギリスは戦後もデトロイトとミシガンの支配を続けた。1790年、ケベック州ローワー・カナダアッパー・カナダに分割されると、ミシガンはアッパー・カナダのケント郡となった。1792年8月には最初の民主的選挙が行われ、ニューアーク(現在のナイアガラオンザレイク市)にあった新しい植民地議会に代議員が派遣された[7]

1794年のジェイ条約で交渉された条件に従い、イギリスは1796年にデトロイトとミチリマキナックから退き上げた。その後も正確な国境に関する問題は残ったままであり、アメリカ合衆国がアッパー半島を支配したのは1818年、ドラモンド島に支配権を確立したのは1847年になってからだった。
19世紀

米英戦争(1812年-1815年)のとき、ミシガン準州(実質的にデトロイトとその周辺のみ)は1812年のデトロイト包囲戦で、ほとんど無血のまま降伏した。デトロイトを取り戻そうとしたアメリカ軍の試みはリバーレジン虐殺と呼ばれる大敗に終わった。この戦闘は現在まで州内で起きた戦闘の中で最も被害の大きなものであり、また米英戦争の中でもアメリカ軍の被害が最も大きなものとなった。1813年のエリー湖の湖上戦後、ミシガンはアメリカ軍が再占領した。その後のカナダ侵略はミシガンから出発し、テムズの戦いが頂点になった。北方の地はイギリス軍が守りきり、休戦条約によって以前の国境が回復された。その後イギリスとの戦争再開を怖れて、ミシガンにはウェイン砦(現在のフォートウェイン)など多くの砦が建設された。松材の切り出し、1800年代後半

その後の人口増加は緩りだったが、1825年にエリー運河が開通し、五大湖とハドソン川およびニューヨーク市が結ばれた。この新しいルートにより、大勢の開拓者が地域に流入し、農夫や商人となり、穀物、木材、鉄鉱石を出荷した。1830年代までに地域人口は8万人となり、州昇格を請願できる数に達していた。1835年10月、住民は1835年憲法を承認し、州政府ができたが、アメリカ合衆国議会の承認は、トレド戦争と呼ばれたオハイオ州との境界紛争があったために遅れた。アメリカ合衆国議会は「トレド・ストリップ」をオハイオ州に与えた。ミシガンはその妥協案としてアッパー半島西部を受け取り、1837年1月26日に州に昇格した。アッパー半島は木材、鉄、銅など豊富な資源があることが分かった。ミシガン州は1850年代から1880年代まで木材生産量で国内上位にいた。1850年代以降は鉄道が成長の原動力となり、デトロイトはその重要な中継点になった。

1854年7月6日、共和党の州集会が初めて開催され、党綱領を採択した。ミシガン州は1930年代まで共和党の強い地盤だった。南北戦争では北軍に重大な貢献を果たし、志願兵40個連隊以上を送った。

1817年に設立され、1841年にアナーバーに移転したミシガン大学は古典的な学術教育を行い、1849年に設立されたミシガン州立師範学校(現在の東ミシガン大学)は教師を養成し、近代化を推進する公共教育の推進役となった。1899年、ミシガン州立師範学校は国内で初めて4年制の課程を組む師範学校になった。1855年にイーストランシングに設立されたミシガン農業カレッジ(現在のミシガン州立大学)は、公有地認可大学の草分けであり、1862年制定のモリル法で認められた大学のモデルになった。他にも多くの私立大学が作られ、19世紀後半には小さな都市でも高校を開いた[8]
20世紀と21世紀「w:History of Ford Motor Company」も参照フォード社のウィローラン生産ラインで作られるB-24爆撃機

ミシガン州の経済は20世紀への変わり目に大きく変化した。ランサム・E・オールズ、ジョン・ドッジとホレス・ドッジの兄弟、ヘンリー・リーランド、デイビッド・ダンバー・ビュイック、ヘンリー・ジョイ、チャールズ・キング、ヘンリー・フォードなど多くの人物が自動車産業の立ち上がりに工学的なノウハウや技術を集中して投入した[9]。フォード社のハイランドパーク工場で採用された移動式組み立てラインの開発が輸送の新しい時代の始まりだった。蒸気船や鉄道と同様自動車は遠距離を走ることのできる手段となった。公共交通の形態以上に個人の生活を変革させた。自動車産業はデトロイトとミシガン州の主要産業となり、アメリカ合衆国のみならず、世界の大半で生活の社会経済的な側面を変えた。

自動車産業はその成長と共にデトロイトでの雇用機会を生みだし、ヨーロッパからの移民およびアメリカ合衆国の南部などから移住者を呼んだ。1920年にはデトロイト市が国内第4位の都市になっていた[10]


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