ミシェル・プラティニ
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ユヴェントスユヴェントス時代(1985年)

1982年にイタリアのユヴェントスに移籍。ユヴェントスは、ワールドカップ・スペイン大会で優勝したイタリア代表ガエターノ・シレアアントニオ・カブリーニマルコ・タルデッリ、同大会得点王のパオロ・ロッシらを擁する強豪であり、同大会で3位入賞したポーランド代表ズビグニェフ・ボニエクもプラティニと同じシーズンに加わるなど実力者揃いのクラブだったが、その中で早くも中心選手となっていった。

1982-83シーズン早々にヘルニアを患い出遅れたが、UEFAチャンピオンズカップ 1982-83決勝では西ドイツハンブルガーSVに敗れ準優勝。国内リーグではASローマに次いで2位となり優勝は逃したが、自身は16得点をあげ得点王となった。翌1983-84シーズンには20得点を上げ2年連続で得点王となると共にユヴェントスの21回目のスクデット獲得と、UEFAカップウィナーズカップ優勝に貢献。1984-85シーズンのリーグ戦では5位となり優勝を逃したが、自身は18得点を上げて3年連続得点王を受賞した。UEFAチャンピオンズカップ 1984-85では決勝に進出しイングランドのリヴァプールFCとの対戦となった。
ヘイゼルの悲劇詳細は「ヘイゼルの悲劇」を参照

1985年5月29日ベルギーブリュッセルヘイゼル・スタジアムで行われた決勝戦は、直前にスタジアム内でサポーター同士による暴動が発生し、死者39名重軽傷者600名を出す惨事となった。試合は予定を過ぎた1時間後に執り行われ、56分にボニエクが倒されて獲得したPKを自ら決め、クラブに初のチャンピオンズカップ優勝をもたらしたが、プラティニ自身は「人生最悪の試合[11]」「この試合の後、罪悪感に悩まされるようになり人生は変わってしまった[11]」と発言している。
トヨタカップ

同年12月8日日本国立霞ヶ丘競技場で行われたトヨタカップにヨーロッパ代表として出場しアルゼンチンアルヘンティノス・ジュニアーズと対戦。試合はアルヘンティノスが先行する展開だったが、63分に獲得したPKを自ら決め1-1の同点とし、再びリードを許した後の82分には相手守備陣の裏をかくループパスをミカエル・ラウドルップに供給し2-2の同点に追いついた。延長戦でも決着はつかずPK戦までもつれこんだが、ユヴェントスの5番目のキッカーとして登場したプラティニが確実にシュートを決め4-2で勝利。ユヴェントスをヨーロッパ勢としては初のトヨタカップ優勝に導くと共に、この大会のMVPに選ばれた[12]

またプラティニはこの試合で「トヨタカップ史上で最も美しいシュート[13]」と評される見せ場を作った[14]。68分のコーナーキックのチャンスにおいて、胸トラップから右足アウトサイドのキックフェイントでボールを浮かせ3人のDFのマークを外し、そのまま反転して左足でボレーシュートを放ちゴールネットに突き刺した。プラティニは最高のパフォーマンスを見せたとの確信からガッツポーズを見せチームメイトも彼に駆け寄り祝福したが、線審はオフサイドフラッグを掲げていたためオフサイドと判定され、幻のゴールとなった[13]。オフサイドと判定された直後に芝生の上で寝そべり、頬杖をついて判定に抗議する姿は強い印象を残した[14][15]。後にプラティニは、フランスの日刊紙リベラシオンに掲載された作家のマルグリット・デュラスとの対談において当時を振り返り、私の選手としてのピークは、1985年の12月だった。 ? ミシェル・プラティニ

と述べている[16]

その後、UEFAチャンピオンズカップ 1985-86では準々決勝でベルント・シュスターを擁するFCバルセロナに敗退。1985-86シーズンのリーグ戦では4年連続得点王のタイトルは逃したものの、ASローマやSSCナポリを退け22回目のスクデット獲得に導いた。またフランス代表での活躍(後述)もあり1983年から3年連続でバロンドール(欧州年間最優秀選手)に選ばれるなど絶頂期にあった。一方で1985年末のクリスマス頃に痛めた左足踵の炎症の状態が回復せず[11][17]、痛みを庇いながらプレーを続けていたためにフォームが崩れ[17]、シーズンが終了するころには疲労はピークに達していた[17]
代表経歴
1970年代1978 FIFAワールドカップ フランス代表時代

フランス代表としては、1976年3月27日に行われたチェコスロバキアとの親善試合で代表デビュー。この試合の71分にFKから直接ゴールを決めて代表初得点[18]。同年にはフランス五輪代表としてカナダで開催されたモントリオールオリンピックに参加。準々決勝まで進出したが、この大会を制した東ドイツの前に敗れた。

ワールドカップアルゼンチン大会予選は4大会連続出場のブルガリアと同じ組となったが、監督のミシェル・イダルゴの下で若返りを図る代表チームはアンリ・ミシェルマリユス・トレゾールという2人のベテランとプラティニ世代の若い選手を軸[19] に強化を進めていった。1977年11月16日、パリで行われた予選最終戦のブルガリア戦。敗れるか引き分ければワールドカップ出場を逃す苦しい状況だったが、18分に自らロングシュートを決める活躍もあり3-1でブルガリアを下し12年ぶりの本大会出場を果たした。

1978年2月8日、敵地のナポリで行われたイタリアとの親善試合において、GKのディノ・ゾフを相手に2本のフリーキックを決めると(試合は2-2で引分け)ヨーロッパ全土にその名が知れ渡るようになった[20]

6月にはアルゼンチンで行われた本大会に出場。結果的にグループリーグで敗退したが地元アルゼンチンやイタリアと接戦を演じ、最終戦でハンガリーに3-1で勝利しワールドカップスウェーデン大会以来20年ぶりの勝利を上げるなど、プラティニを中心としたパスサッカーは高い評価を受けた[21][22]

1979年9月5日ストックホルムで行われたUEFA欧州選手権1980予選スウェーデン戦で初めてキャプテンに任命され名実共に中心選手となる[23] が、チェコスロバキアに競り負け本大会出場を逃した。


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