ミゲル・デ・ウナムーノ
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この頃にアンペル・ガニベト(Angel Ganivet)を知り、真のスペイン思想の追求という点で意気投合した。1892年に長男が、1894年に次男が生まれたが、1896年に生まれた三男のライムンドが生まれたが、ライムンドは脳水腫によって正常な意識を持たないまま、7歳で死去した[11]。この出来事はウナムーノに終生死という問題を突きつけ、彼の著作にも大きな影響を及ぼした。1897年には長編小説『戦争の中の平和』を発表した。1898年にスペインは米西戦争で敗北し、スペイン社会に対する問題提起や刷新を模索した「98年世代」と呼ばれる思想家・著作家・芸術家が多く登場した。ウナムーノは「98年世代」の指導者に挙げられている。サラマンカへの移動後にも、1894年にはビルバオの社会主義グループに参加するなどし、またスペイン社会労働党(PSOE、社会党)の創始者であるパブロ・イグレシアス(英語版)と交友があった[3]。若い頃のウナムーノは社会主義運動に共感しており、排他的な性格を持つバスク民族主義運動には否定的だった[3]。地方が独自性を発揮しつつ、スペインのために努力すべきであるとする思想を持っており、1901年にはビルバオでの講演の中で、「バスク語は死滅するし、当然死滅するべきだ」と過激な発言を行った[2]

35歳だった1900年には、スペイン政府によってサラマンカ大学総長に任命され、30年以上在職した前任のマメス・エスラベーから椅子を引き継いだ[12]。この頃にはノルウェーのイプセンの演劇や、デンマークのキェルケゴールの哲学を知り、キェルケゴールの著作を原語で読むためにデンマーク語を修得。特にキェルケゴールの思想は、ウナムーノの実存主義的な思想に多大な影響を及ぼした。ウナムーノはヨーロッパ思想界の中でもかなり早い時期からキェルケゴールの思想の独自性に注目していた。1902年には随筆『風景』を出版した。1905年には『ドン・キホーテとサンチョの生涯』を刊行したが、ウナムーノはセルバンテスドン・キホーテ」の人物像にこそ、真のスペイン人としての生き方・倫理観があると考え、人生や死の問題や自己を自己流に解釈した。この作品はウナムーノの代表作のひとつとなった。1907年には43歳にして初の詩集を刊行した[6]。1908年には自伝風の物語『幼き日の思い出』を刊行し、1911年からは雑誌『近代スペイン』に各種随筆や論考を寄稿した。1913年には『近代スペイン』にも掲載された論考、『人間と民族における生の悲劇的感情』を出版。死をめぐる生と理性の葛藤を論じ、ウナムーノの哲学の代表作となった[6]

1914年にはアルフォンソ13世から大学総長の座を罷免されたが[13]、スペインや南米の知識人はウナムーノを擁護する運動を展開した[12]。1920年には論文でアルフォンソ13世の体制批判を行ったとして、裁判で懲役16年が宣告されたが、同僚たちの弁護によって副総長に選出された[3][13]。1923年にミゲル・プリモ・デ・リベラ独裁政権が成立すると、1924年には独裁政権を批判したために停職処分を受け、政治犯として大西洋上のカナリア諸島フエルテベントゥーラ島に追放された[3]。ギリシア語版の新約聖書ダンテ・アリギエーリの『神曲』、ジャコモ・レオパルディ「詩集」の3冊を持って流島に向かった[14]とされている。フエルテベントゥーラ島に4か月滞在した後、フランスのル・クォティディアン紙(Le Quotidien)が亡命に協力し、グラン・カナリア島ラス・パルマスシェルブール港を経由してパリに到着した[15]パリシャルル・ド・ゴール広場に近いペンションを仮宿とし、モンパルナス地区のカフェ「ラ・ロトンド」ではパブロ・ピカソジャン・コクトーアメデオ・モディリアーニマルク・シャガール藤田嗣治ジャン・カスーらと交遊した[15]。南米の新聞や雑誌、フランスのル・クォティディアン紙などで執筆したが、検閲を行うスペインの新聞や雑誌では執筆を行わなかった[15]

約一年パリに滞在後に、1925年にはフランス領バスクにあるスペインとの国境の町アンダイエに移住[3][13]、駅前のホテル「ブローカ」を仮宿とした[15]。フランス亡命中にはプリモ・デ・リベラ独裁政権を批判して共和制の実現を訴え[16]、フランスにおいて注目を集めた。1925年には『キリスト教の苦悶』を執筆。その中で彼はイエス・キリストの死生観について語り、イエスがプラトン風の魂の不滅性ではなく、ユダヤ風の肉体の復活を信じていたこと、魂の不滅の教義がキリスト教ではなく哲学的教義である事を示した。また、エドゥアルド・オルテガ・イ・ガセット(英語版)[17]との共同で、スペインの独裁政権を非難する『自由ノート』を執筆した[18]。1930年に独裁政権が崩壊すると、65歳のウナムーノはスペイン国民に熱狂的に出迎えられ、再びサラマンカ大学総長に指名された[16]。1930年4月には週刊誌が共和国大統領に望む人物の模擬選挙を行い、16%の得票を獲得したウナムーノはニセト・アルカラ・サモーラ(英語版)に次ぐ1位となった[19]

1931年に第二共和政が成立すると、サラマンカ市庁舎のバルコニーから共和制樹立の演説を行い、サラマンカ大学の終身総長に就任した[20]。1931年の地方選挙には無所属で出馬して当選し、また同年の憲法制定議会総選挙でも第2位で当選した[19]。しかし、王制を擁護する発言を行うなどして物議を醸し[16]、1933年には政治界から身を引いた[20]。1933年には小説『殉教者マヌエル・ブエノ』を執筆し、1934年にはサラマンカ大学で最終講義を行った。第二共和政期にはサラマンカ大学終身総長に加えて、フランスのグルノーブル大学名誉教授、イギリスのオックスフォード大学名誉教授、サラマンカ名誉市民、スペイン共和国名誉市民の肩書を手にし、サラマンカのアナヤ宮殿には自身の彫像が立てられた[16]。しかし、この時期には妻のコンセプシオン、長女、弟、ふたりの姉妹を亡くしており、その思想は左派から非難を浴びた[16]

1936年7月、フランシスコ・フランコらの反乱軍(英語版)によってスペイン内戦が勃発すると、サラマンカで開催された反乱軍の集会で演説したため、8月には共和国政府のマヌエル・アサーニャ大統領からサラマンカ大学終身総長の任を解かれた[20]


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