ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ
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『聖アンナと聖母子』は別名『蛇の聖母』とも呼ばれており、もともとはローマ教皇庁の馬丁組合大信心会が依頼し[18]サン・ピエトロ大聖堂の小さな祭壇に飾るために描かれた作品だった[19]。だが飾られていたのはわずか二日間だけで、すぐさま祭壇から除去されてしまった。当時の枢機卿付書記官が「下品で、神を冒涜する不信心極まりない絵画で、嫌悪感に満ちている…この絵画は優れた技術を持つ画家の作品かも知れないが、その画家の心は邪悪で善行や礼拝などといった信仰心からはかけ離れているに違いない」と書き残している。『聖母の死』は1601年にサンタ・マリア・デッラ・スカラのカルメル会修道院に礼拝堂を個人所有していた裕福な法律家の依頼を受け、その礼拝堂の祭壇画として描かれた作品だったが、1606年に修道院から所蔵を拒絶されている。同時代の著述家ジュリオ・マンチーニが、修道院からこの作品が拒絶されたのは、当時非常によく知られていた娼婦を聖母マリアのモデルにしたためであると記録している[20]。同じく同時代人の画家ジョヴァンニ・バリオーネは、どちらの絵画も聖母マリアのむきだしの足が問題視されたのだとしている[21]。カラヴァッジョの研究者ジョン・ガッシュは、カルメル会修道院が『聖母の死』を拒絶したのは、芸術的評価ではなくカルメル会の教義が影響しているのではないかと推測した。神の母は決して死することなく天国へと召されただけであるという聖母の被昇天の教義を否定している絵画と見なされたとしている。『聖母の死』の代替に描かれたのは、カラヴァッジョの追随者でもあったカルロ・サラチェーニが描いた祭壇画で、カラヴァッジョの『聖母の死』とは違って、聖母マリアは未だ死んではおらず、座して死に行くさまを描いたものだった。しかしながらこの祭壇画も修道院から受け取りを拒否され、さらなる代替作品として、天使たちが聖歌を歌う中でマリアが天界へと昇天していく絵画が描かれている。とはいえ、このような絵画の受入拒否はカラヴァッジョやその作品が嫌われていたことを意味するとは限らない。『聖母の死』は修道院から拒まれた直後にマントヴァ公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガが購入しており、しかもこのときにマントヴァ公にこの作品の購入を勧めたのはルーベンスだった。その後、1671年にイングランド国王チャールズ1世が購入し、清教徒革命によるイングランド内戦でチャールズ1世が処刑されると、フランスへ売却されてフランス王室コレクションに納められた。愛の勝利』(1601年 - 1602年)
絵画館ベルリン

キリスト教には関係がないこの時期の作品の一つに、1602年にデル・モンテの取り巻きの一人で銀行家・美術本収集家イタリア人ヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ (Vincenzo Giustiniani) の依頼で描かれた『愛の勝利』(ベルリン絵画館所蔵、1601年 - 1602年)がある。描かれているキューピッドのモデルとなったのは、17世紀初頭の記録にフランチェスコの愛称である「チェッコ (Cecco)」と記されている人物である。この人物は後にチェッコ・デル・カラヴァッジョ (Cecco del Caravaggio)と呼ばれ、1610年から1625年ごろに画家として活動したフランチェスコ・ボネリではないかと考えられている[22]。裸身で矢を手にし、好戦、平和、科学などを意味する事物を踏みにじっている様子で描かれ、その歯をむき出しにしてほくそ笑むいたずら小僧のような表現は、ローマ神話の神であるキューピッドを想起することは難しい。カラヴァッジョには他にも半裸の青年として多くのキューピッドを描いた絵画があるが、いずれも芝居の小道具のような翼で描かれており、こちらも神話のキューピッドが描かれているようには見えない。しかしながらカラヴァッジョが意図していたものは、極めて強く写実的に絵画を描くことによって、神たるキューピッドと俗世のチェッコ、あるいは聖母マリアとローマの娼婦という二面性を同時に作品に持たせることだった。
ギャラリー

『聖パウロの回心』(1600年頃)
オデスカルキ・バルビ・コレクション

『ダマスカスへの途中での回心』(1601年)
サンタ・マリア・デル・ポポロ教会(ローマ)

『聖マタイと天使』(1602年)
第二次世界大戦で消失

『聖マタイの霊感』(1602年頃)
サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂(ローマ)

ロレートの聖母』(1604年 - 1606年頃)
サン・タゴスティーノ聖堂 (ローマ

聖母の死』(1604年 - 1606年頃)
ルーブル美術館(パリ)

聖アンナと聖母子』(1605年 - 1606年頃)
ボルゲーゼ美術館(ローマ)

書斎の聖ヒエロニムス』(1605年 - 1606年頃)
ボルゲーゼ美術館(ローマ)

ローマ追放と死(1606年 - 1610年)ロザリオの聖母』(1607年)
美術史美術館ウィーン

カラヴァッジョは激動の生涯を送った。裏社会の住人たちの間でさえ喧嘩っ早いという悪評があり、カラバッジョの不品行が当時の警備記録や訴訟裁判記録に数ページにわたって記載されている。そしてカラヴァッジョは、1606年5月29日におそらく故意ではないとはいえ、ウンブリアテルニ出身のラヌッチオ・トマゾーニという若者を殺害してしまう[23]。それまでのカラヴァッジョの放埓な言動は、有力者に多くパトロンがいたことによって大目に見られていたが、このときはパトロンたちもカラヴァッジョを庇うことはなかった。殺人犯として指名手配されたカラヴァッジョはローマを逃げ出し、ローマの司法権が及ばないナポリで有力貴族コロンナ家の庇護を受けた。カラヴァッジョとコロンナ家との関係は『ロザリオの聖母』(美術史美術館所蔵、1607年)など、主要な教会からの絵画制作依頼に大きく寄与している[24]

慈悲の七つの行い』、『キリストの鞭打ち』などの作品によりナポリでも成功を収めたカラヴァッジョだったが、数か月後には、おそらくマルタ騎士団の騎士団総長アロフ・ド・ウィニャクール (en:Alof de Wignacourt) の庇護を求めて、ナポリからマルタへと移った。ド・ウィニャクールは、このイタリア有数の高名な画家を騎士団の公式画家とすることは利益になると判断してカラヴァッジョを騎士団の騎士として迎え入れ、カラヴァッジョを喜ばせた[25]。マルタ滞在時にカラヴァッジョが描いた主要な作品には、唯一カラヴァッジョ自身の署名が残る『洗礼者聖ヨハネの斬首』(聖ヨハネ准司教座聖堂所蔵、1608年)や、『アロフ・ド・ヴィニャクールと小姓の肖像』(ルーブル美術館所蔵、1607年 - 1608年)を始め当時の主要なマルタ聖堂騎士団員を描いた肖像画などがある。

遅くとも1608年8月終わりまでに、カラヴァッジョは逮捕され投獄されている。このマルタ時代のカラヴァッジョを取り巻く急激な環境変化は長く議論の的になっており、近年の研究では、カラヴァッジョがマルタでも喧嘩沙汰を起こし、騎士団宿舎の扉を叩き壊したうえに騎士の一人に重傷を負わせたためだとされている[26]。騎士団員たちによって投獄されたカラヴァッジョは、同年11月に「恥ずべき卑劣な男」であるとして騎士団から除名されたが[27]、脱獄してマルタから逃れた。『聖ルチアの埋葬』(1608年)
サンタ・ルチア・アラ・バディア教会(シラクサ

マルタを後にしたカラヴァッジョは、昔からの知り合いで結婚後シラクサに住んでいたマリオ・ ミンニーティを頼ってシチリアへと逃れた。


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