ミケランジェロ・ブオナローティ
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『ケンタウロスの戦い』(1492年頃)
カーサ・ブオナローティ(フィレンツェ)

父ルドヴィーコは、ミケランジェロ少年を人文主義者フランチェスコ・ダ・ウルビーノのもとへ送り、学問を学ばせようとした[5][9][注釈 2]。しかしミケランジェロは学問には興味を示さず、教会の装飾絵画の模写や画家たちと交際することを好んた[9]。ミケランジェロは13歳のときに画家ドメニコ・ギルランダイオに弟子入りし[1][10]、わずか14歳でギルランダイオに一人前の画家と認められたが、これは当時としては極めて異例のことだった[11]。1489年にメディチ家当主でフィレンツェの最大権力者ロレンツォ・デ・メディチがギルランダイオに、最も優れた弟子を2名、自分のところへ寄こすように求め、このときにミケランジェロとフランチェスコ・グラナッチ(英語版)がロレンツォの元へと派遣されている[12]。1490年から1492年にかけて、ミケランジェロはメディチ家が創設した人文主義のプラトン・アカデミーに参加している。当時のミケランジェロはベルトルド・ディ・ジョヴァンニ(英語版)のもとで彫刻を学んでおり、16歳の頃には、私的なサークルであるプラトン・アカデミーに集うマルシリオ・フィチーノピコ・デラ・ミランドラアンジェロ・ポリツィアーノなど当代一流の人文主義者や詩人たちと交流していた[13]。この時期にミケランジェロが制作したレリーフとして『階段の聖母(英語版)』(1490年 - 1492年)、『ケンタウロスの戦い(英語版)』(1491年 - 1492年)が挙げられる。『ケンタウロスの戦い』はポリツィアーノがミケランジェロに語ったギリシア神話のエピソードをもとに制作されたもので、ロレンツォ・デ・メディチがミケランジェロに依頼した作品だった[14]。ベルトルド・ディ・ジョヴァンニのもとで修行していた17歳のミケランジェロは、ロレンツォ・デ・メディチの後援で彫刻を勉強していた3歳年長のピエトロ・トッリジャーノ(英語版)に顔を殴られて鼻骨が曲がってしまい、現存するミケランジェロの肖像画の多くはこの特徴がはっきりととらえられている[15]
青年期

1492年4月8日に後援者のロレンツォ・デ・メディチが死去したことにより、ミケランジェロを取り巻く環境は激変し[16]、ミケランジェロはメディチ家の庇護から離れて父親の元へと戻った。その後数ヶ月をかけて、フィレンツェのサント・スピリト修道院長への奉献用に、木彫の『キリスト磔刑像(英語版)』(1492年、フィレンツェ、サント・スピリト教会)を制作している。修道院長は修道院付属病院で死去した人の身体を、解剖学の勉強のためにミケランジェロに提供した人物だった[17]。ミケランジェロは1493年から1494年にかけて、ギリシア神話の英雄ヘラクレスの大きな立像制作のために大理石の塊を購入している。このヘラクレス像はフィレンツェに送られたという記録が残っているが、18世紀に行方不明になっている[14][注釈 3]。大雪が降り積もった1494年1月20日に、ロレンツォ・デ・メディチの後継者ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチからミケランジェロに雪像制作の依頼が舞い込み、再びミケランジェロはメディチ家宮廷に迎えられることとなった。

しかし同年、フィレンツェの支配者メディチ家は、フランス軍のイタリア侵攻と修道士ジロラモ・サヴォナローラの扇動による排斥運動でフィレンツェから追放されてしまう。ミケランジェロもこの政変の直前にフィレンツェを去っており、ヴェネツィアを経てボローニャへと居を移した[16]。移住先のボローニャでミケランジェロは、サン・ドメニコ聖堂の聖遺物櫃の小さな人物像彫刻を完成させる仕事を引き受けている。その後、1494年の終わりごろにはフィレンツェの政争は落ち着きつつあり、フランス王シャルル8世率いるフランス軍もローマ教皇、神聖ローマ皇帝らが結んだ軍事同盟の前に撤退したため、当面の危機は回避した状態だった。ミケランジェロはこのような情勢下のフィレンツェへと戻ったが、メディチ家不在のフィレンツェ政府からは作品制作の注文を受けることはなく、フィレンツェ外のメディチ家からの庇護に頼らざるを得なかった[18]。ミケランジェロがフィレンツェで制作した彫刻に、『幼児洗礼者ヨハネ』と『キューピッド』の2つの小品があるが、どちらも現存していない。アスカニオ・コンディヴィ(英語版)が著した16世紀のミケランジェロの伝記によれば、これらの作品をミケランジェロに作らせたのはメディチ家傍流のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチである。ロレンツォはミケランジェロに「これ(『キューピッド』をさす)をどこかからの発掘品のように加工しろ」と命じ「古代ローマの古美術品としてローマに送れば……高値で売ることができる」と考えたとしている。『幼児洗礼者ヨハネ』をロレンツォから購入した枢機卿ラファエーレ・リアーリオ(英語版)はこの作品が偽物であることに気付いたが、彫刻自体の出来栄えに感銘を受けてミケランジェロをローマへと招いた[19][注釈 4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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