ミクロネシア人
[Wikipedia|▼Menu]
最大の島はマリアナ諸島にあるグアム島である。面積約550km2で高さは約400m。バベルダオブ島(パラオ本島)は面積約400km2で高さは約200m、ポンペイ島は約340km2で高度734m、コスラエ島は約116km2で高度約650mである[3]
気候

主に熱帯雨林気候(Af)で年平均気温は26?28℃、温暖で降水量も多い。西部のマリアナ諸島では弱い乾季があり熱帯モンスーン気候(Am)に分類される地点もある。
生物

国際自然保護連合のUdvardy (1975)では、生物地理区の区分上において、日本小笠原諸島オセアニア区ミクロネシア地区島嶼混合系に属している[4]
人口・文化など

人口(2000年の推計値)は514,400人[5]であり、先住民の大半はミクロネシア系であるが、カピンガマランギ環礁など、ポリネシア系の住民が暮らす島もごくわずかに存在し、それらは域外ポリネシア(Polynesian outlier)と呼称される。ちなみにカロリン諸島には、ポリネシアのものに極めて近い航法技術(ウェイファインディング)が残存しており、先史時代のミクロネシアとポリネシアの間で文化的交流があり、かつ両者が同じオーストロネシア系民族によって形成された文化であることを示している。また、日系人の人口も多い。

現代では、太平洋芸術祭などによってポリネシアやメラネシアの先住民との文化的交流が為されている他、ミクロネシア連邦ヤップ州サタワル島の航法師マウ・ピアイルックがハワイの先住民運動(ハワイアン・ルネッサンス)に協力し、その功績から「パパ・マウ」と呼ばれている。

太平洋戦争大東亜戦争)は、ミクロネシアの人々にとって初めての近代的戦争経験であり、この地の社会・文化を覆す事件であった。そのためミクロネシア社会は、アジア・太平洋的伝統社会システムからキリスト教的価値観を基礎とする欧米的生活様式へ転換した[6]。太平洋戦争の痕跡は、キリバスのタラワ環礁、パラオのペリリュー島、マリアナ諸島のサイパン島などミクロネシアの各所に今なお残されている。また、日本軍兵やアメリカ兵の墓標(慰霊碑)が、戦後になって遺族や政府などによって建立されている[7]。また、1946年から1958年にかけて、アメリカが110回あまりの原水爆実験をマーシャル諸島で実施した。その影響でロンゲラップ環礁の人たちをはじめ第五福竜丸など多くの人々が被爆した[8]
政治

政治行政単位は以下の通りである。
主権国家


ナウル・・・2011年時点で1万84人[9]

キリバスギルバート諸島)・・・2015年時点で9万9608人[10]

以下の3つは主権国家であるが、アメリカによって自由連合盟約援助金(コンパクト・グラント)を供与されている[11]

パラオ・・・2015年時点で1万7661人[12]

ミクロネシア・・・2010年時点で10万2843人[13]

マーシャル諸島・・・2011年時点で5万3158人[14]

アメリカ合衆国


北マリアナ諸島(米国の自治連邦区)・・・2010年時点で5万3883人[15]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:88 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef