マー・ワラー・アンナフル
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ザラフシャン川カシュカ川、アム川に流入する支流の流域ではオアシスが形成され、農業が営まれていた[1]。アム川やシル川、ザラフシャン川などの河川の流域にサマルカンドブハラなどに代表される都市や村落群と耕地が開発され、定住地域の周辺に広がる草原や砂漠には遊牧民が闊歩する地であった。また中国内地とを結ぶシルクロードが発達し、テュルク系民族やソグド人などが交易などを通じて東西を結んだ。

紀元前6世紀にトランスオクシアナはアケメネス朝のキュロス2世によって征服され[12]、ソグド州に区画される[13]。アケメネス朝期のソグド州でどのような統治が敷かれたかは明らかになっていないが、アラム語アラム文字が導入され、アラム文字はソグド文字の原型となったと考えられている[14]。アケメネス朝を滅ぼしたマケドニア王国アレクサンドロス3世に対してトランスオクシアナの住民は一度は降伏するも反乱を起こし、紀元前329年から紀元前327年までの間およそ50,000のマケドニア兵が反乱の鎮圧に動員された[15]。アレクサンドロス3世による征服の後、ヘレニズム文化がトランスオクシアナにもたらされる[11]

アレクサンドロス3世の死後、トランスオクシアナはセレウコス朝バクトリア王国の支配下に入り、バクトリアの貨幣を模した貨幣が鋳造されはじめる[14]紀元前2世紀にバクトリア王国が大月氏によって滅ぼされた頃、トランスオクシアナは遊牧民族の康居によって支配されていたと言われている[14]。トランスオクシアナと中国を結ぶ交易路は大月氏や匈奴などのタリム盆地に勢力を有する遊牧勢力に阻まれていたが、前漢武帝によるフェルガナ大宛)遠征の結果、紀元前2世紀から交易が開始される[16]トハーリスターンに建国されたクシャーナ朝はトランスオクシアナを支配下に置き、クシャーナ朝が衰退した後のトランスオクシアナにはオアシス都市の連合国家が成立する[17]5世紀半ばにトランスオクシアナを含むパミール高原以西のオアシス地帯は、遊牧民族のエフタルの支配下に入る[18]
ソグド人の活躍ソグディアナで鋳造されたpny

イスラーム化前のトランスオクシアナはイラン系のソグド人の根拠地であり、「ソグディアナ」と呼ばれていた[1]。ソグディアナは中央アジアの肥沃な地域の一つに数えられ、中心地であるサマルカンドに居住するソグド人はザラフシャン川の水を利用して農業を発達させた[19]。ソグディアナはペルシア文化圏に属し、イランのサーサーン朝からの影響を強く受けていた[2]。オアシス都市は城砦(quhandiz)と市街地(shahrist?n)から成り立ち、規模の大きいオアシスは市街地の外に広がる郊外(rabad)を有していた[20]。それらのオアシス都市は周辺の村落や農地とともに一人の領主によって支配され、中国の史料にはソグディアナに存在していた康国(サマルカンド)、安国(中安国。ブハラ)などの都市国家が挙げられている

7世紀後半までの約2世紀の間、ソグディアナはテュルク系の遊牧民族突厥の支配下に置かれていた。木汗可汗の指導下でエフタルを破った突厥はソグディアナを征服し、583年に東西に分裂した突厥のうち、西突厥はソグディアナを支配下に置いた[21]。ソグド人は遊牧勢力の支配下で商業活動に従事し、河西回廊から東トルキスタン、セミレチエからソグディアナにはソグド人の植民都市が作られた[22]。ソグド人の商業活動によって中央アジアの珍品が中国にもたらされ、中国の諸王朝は西方との国交を樹立するために盛んに使者を送った[23]

ソグディアナでは手工業が盛んで、綿織物、絹織物、銀器などが生産されていた[24]
イスラーム勢力の進出とテュルク化

8世紀初頭のウマイヤ朝の将軍クタイバ・イブン・ムスリムの征服後にマー・ワラー・アンナフルのイスラーム化が本格的に進展し[2][1]、イスラーム化と並行して近世ペルシア語が広まっていった[1]。この地域は13世紀モンゴル人に侵されるまでイスラム文化の一中心地であり続ける。

651年にサーサーン朝を滅ぼしたアラブ人の軍隊は653年ホラーサーン地方を征服し、654年に初めてマー・ワラー・アンナフルに現れる[25]。略奪、貢納の徴収を目的とするアラブ人の侵入が繰り返された後、705年からクタイバによって実施された中央アジア征服をきっかけに、マー・ワラー・アンナフルのアラブ支配・イスラーム化が始まった[25]。クタイバによってブハラ、サマルカンドなどの都市にモスク(寺院)が建立され、遠征に従軍したアラブ兵の移住と征服地の住民のイスラームへの改宗が推進されたといわれている[26]。クタイバの死後、715年から737年までの間、マー・ワラー・アンナフルは突騎施によって占領される[27]。マー・ワラー・アンナフルの支配権を巡って毎年のように続くウマイヤ軍とソグド諸国・突騎施連合軍の戦争から逃れるため、多くのソグド人が東方に避難した[28]739年にウマイヤ朝のホラーサーン総督ナスル・イブン・サイヤールはシル川の河畔で突騎施の指導者莫賀達汗を捕らえ、ソグド諸国と和平を締結し、マー・ワラー・アンナフルの奪回に成功した[29]

ウマイヤ朝のカリフ・ヒシャームの治世にソグド人の反乱が鎮圧され、アラブのマー・ワラー・アンナフル支配は確固たるものになる[30]。そして、751年アッバース朝タラス河畔の戦い高仙芝の率いる唐軍に勝利を収め、中央アジアにおける唐の勢力は大きく後退した[31]


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