1970年代前半の休止ののち、ブランドは『スーパーマン』(1978年)におけるジョー=エル役、『地獄の黙示録』(1979年)におけるカーツ大佐役、『ジェネシスを追え』(1980年)のアダム・ステイフェル役など高収入の性格俳優として助演を演じることで概ね満足しており、その後映画から9年の休止を取った。『ギネス・ブック』によれば、ブランドは『スーパーマン』において13日間の仕事で370万ドルの報酬と利益の11.75%を得たという。アメリカン・フィルム・インスティチュートにおいて、1950年代以前にデビューしたスターの中でブランドはベスト4位に選ばれた。『タイム』が1999年に発表した今世紀最も重要な人物100人においては俳優で選ばれた6名の内の一人である[5]。このリストで、『タイム』はブランドを20世紀最高の俳優と評している[6]。 ブランドは1924年4月3日、ネブラスカ州オマハに化学飼料と駆虫剤の製造業を営んでいたマーロン・ブランド・シニア(1895年?1965年)とドロシー・ジュリア・ペネベイカー(1897年?1954年)の息子として誕生した[7]。ブランドにはジョスリン(1919年?2005年)とフランセス(1922年?1995年)というふたりの姉がいた。彼の祖先は主にドイツ、オランダ、イングランド、アイルランドの系統である[8][9][10]。ブランドの父方の祖先である移民ジョハン・ウィルヘルム・ブランドーは1700年代初頭にドイツのプファルツ地方からニューヨークに移住した[11]。彼はまた、1660年頃にニューヨークに降り立ったフランスのユグノー、ルイス・デュ・ボアの子孫でもある[12]。ブランドの母方の曾祖父マイルズ・ジョセフ・ガハンは南北戦争で看護兵を務めたアイルランド移民であった[13]。1995年、アイルランドでインタビューを受けた際、ブランドは「人生でこれほど幸せなことはない。飛行機から降りたとき、感情が押し寄せてきた。ここにいるときほど、故郷にいると感じたことはない。真剣にアイルランドの市民権が欲しい」と話した[14]。ブランドはクリスチャン・サイエンティストとして育てられた[15]。10歳のブランド ドディと呼ばれた母親は、酒を飲みズボンを履き車を運転するなど、この時代においては珍しい女性であった。自身も女優で舞台の管理者であった母はヘンリー・フォンダのキャリアのスタートを助けた。しかしアルコール依存症であった彼女はシカゴのバーから夫の手によって運ばれることが多かった。自伝『母が教えてくれた歌』において、ブランドは母親について書くときに「彼女の酒癖の悪さが生んだ苦悩とは、我々の世話をするよりも酒を飲むことを好んだことだった」と悲しみを露わにしている[16]。ドディとブランドの父親はやがてアルコホーリクス・アノニマスに参加した[17]。ブランドは「彼と同じ名前だが、私のしたことで彼が喜んだことも興味を持ったことすらもない。彼は私が何も上手くできないだろうと嬉々として伝えてきた。私は何者にもなれないだろうと何度も言ってきた」と述べより深い憎しみを露わにした[18]。4歳の時、ブランドはティーンエイジャーのガヴァネスから性的虐待を受けた。ブランドは彼女に愛着を抱き、彼女が去ったときには悲しみに暮れた。その後の生涯において、ブランドは彼女の喪失に苦しみ続けた[19]。1930年頃、父親がシカゴで仕事をするためにブランドの両親はイリノイ州エバンストンに移住したが、ブランドが11歳の時、両親は別れた。母親は3人の子供をカリフォルニア州サンタアナまで連れて行きそこで自身の母親と暮らした。
生い立ちと教育