マーロン・ブランド
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10年間の不振の末、ブランドはフランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』におけるヴィトー・コルレオーネ役のスクリーン・テストを受けることに合意した。この役を得たブランドは2つ目のアカデミー賞とゴールデングローブ賞を受賞し、批評家からはキャリアで最高の演技と評価された。ブランドは「今日の映画業界におけるアメリカン・インディアンの扱い、そして最近起きたウンデット・ニーの占拠事件」を理由にアカデミー賞の受賞を拒否し、サチーン・リトルフェザーを代理人として賞の回収と拒否した理由を説明させた[4]。『ゴッドファーザー』は 歴代興行収入上位の映画のひとつとなり、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』での演技ではアカデミー賞にノミネートされ、ブランドは興行的スターとしての地位を再確立した。

1970年代前半の休止ののち、ブランドは『スーパーマン』(1978年)におけるジョー=エル役、『地獄の黙示録』(1979年)におけるカーツ大佐役、『ジェネシスを追え』(1980年)のアダム・ステイフェル役など高収入の性格俳優として助演を演じることで概ね満足しており、その後映画から9年の休止を取った。『ギネス・ブック』によれば、ブランドは『スーパーマン』において13日間の仕事で370万ドルの報酬と利益の11.75%を得たという。アメリカン・フィルム・インスティチュートにおいて、1950年代以前にデビューしたスターの中でブランドはベスト4位に選ばれた。『タイム』が1999年に発表した今世紀最も重要な人物100人においては俳優で選ばれた6名の内の一人である[5]。このリストで、『タイム』はブランドを20世紀最高の俳優と評している[6]
生い立ちと教育

ブランドは1924年4月3日、ネブラスカ州オマハに化学飼料と駆虫剤の製造業を営んでいたマーロン・ブランド・シニア(1895年?1965年)とドロシー・ジュリア・ペネベイカー(1897年?1954年)の息子として誕生した[7]。ブランドにはジョスリン(1919年?2005年)とフランセス(1922年?1995年)というふたりの姉がいた。彼の祖先は主にドイツ、オランダ、イングランド、アイルランドの系統である[8][9][10]。ブランドの父方の祖先である移民ジョハン・ウィルヘルム・ブランドーは1700年代初頭にドイツのプファルツ地方からニューヨークに移住した[11]。彼はまた、1660年頃にニューヨークに降り立ったフランスのユグノー、ルイス・デュ・ボアの子孫でもある[12]。ブランドの母方の曾祖父マイルズ・ジョセフ・ガハンは南北戦争で看護兵を務めたアイルランド移民であった[13]。1995年、アイルランドでインタビューを受けた際、ブランドは「人生でこれほど幸せなことはない。飛行機から降りたとき、感情が押し寄せてきた。ここにいるときほど、故郷にいると感じたことはない。真剣にアイルランドの市民権が欲しい」と話した[14]。ブランドはクリスチャン・サイエンティストとして育てられた[15]10歳のブランド

ドディと呼ばれた母親は、酒を飲みズボンを履き車を運転するなど、この時代においては珍しい女性であった。自身も女優で舞台の管理者であった母はヘンリー・フォンダのキャリアのスタートを助けた。しかしアルコール依存症であった彼女はシカゴのバーから夫の手によって運ばれることが多かった。自伝『母が教えてくれた歌』において、ブランドは母親について書くときに「彼女の酒癖の悪さが生んだ苦悩とは、我々の世話をするよりも酒を飲むことを好んだことだった」と悲しみを露わにしている[16]。ドディとブランドの父親はやがてアルコホーリクス・アノニマスに参加した[17]。ブランドは「彼と同じ名前だが、私のしたことで彼が喜んだことも興味を持ったことすらもない。彼は私が何も上手くできないだろうと嬉々として伝えてきた。私は何者にもなれないだろうと何度も言ってきた」と述べより深い憎しみを露わにした[18]。4歳の時、ブランドはティーンエイジャーのガヴァネスから性的虐待を受けた。ブランドは彼女に愛着を抱き、彼女が去ったときには悲しみに暮れた。その後の生涯において、ブランドは彼女の喪失に苦しみ続けた[19]。1930年頃、父親がシカゴで仕事をするためにブランドの両親はイリノイ州エバンストンに移住したが、ブランドが11歳の時、両親は別れた。母親は3人の子供をカリフォルニア州サンタアナまで連れて行きそこで自身の母親と暮らした。ブランドの両親は1937年までには和解し、次の年までにエバンストンを去って一緒にシカゴの小さな町リバティヴィルに移住した[20]。1939年から1941年の間、ブランドは町の唯一の映画館ザ・リバティで案内人として働いた[21]

少年時代のニックネームが「バド」であったブランドは小さい頃からモノマネの達人であった。一緒に遊んでいる子どもたちの癖を吸収し、キャラクターのままでドラマチックに表現することができた。ブランドは近所の少年ワリー・コックスと知り合いふたりは1973年にコックスが世を去るまで親友同士であった。2007年のTCM伝記『Brando: The Documentary』において、少年時代の友人ジョージ・エングルンドは、ブランドの最初期の演技は母親をアルコールから遠ざけるため、家族の牧場にいるウシやウマのモノマネであったと回想している。始めに演技キャリアを追い始めたのは姉ジョスリンであり、彼女はニューヨークのアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツに通った。ジョスリンはブロードウェイ、その後映画やテレビにも出演した。ブランドの姉フランセスはニューヨークでアートを学ぶために大学を中退した。ブランドは廊下でバイクに乗ったことでリバティヴィル高校を留年しやがて退学処分となった[22]

ブランドはかつて父親が在籍したミネソタ州にあるシャタック・ミリタリー・アカデミーに送られた。ブランドは演劇で才能を見せ学校でうまくいっていた。最終学年の時(1943年)、演習中に陸軍大佐への訪問を拒んだことで謹慎処分を受けた。彼は外出禁止命令が出ていたにもかかわらず町に遊びに出て見つかってしまった。教職員はブランドの退学処分に投票したが、処分が厳しすぎると考えた生徒たちはブランドの味方に付いた。ブランドは次の年に復学するように認められたが、自ら退学の道を選んだ。ブランドは父親の手配で夏に溝を掘る労働者として働いた。彼は陸軍への入隊を試みたが、身体検査においてシャタックでフットボール中に受けた傷により膝が故障しやすい状態であることが判明した。ブランドはIV-F(軍務における身体的不適格)と見なされ入隊できなかった[8]
ニューヨークと演技

ブランドは姉を追ってニューヨークへ行き、アメリカン・シアター・ウィング・プロフェッショナル・スクール(ニュースクール大学の演劇ワークショップのひとつで有名なドイツの監督エルヴィン・ピスカトールの指導の下)で勉強した。1988年のドキュメンタリー『Marlon Brando: The Wild One』において、ブランドの姉ジョスリンは「彼は学校の演劇を楽しんでいた...演劇が唯一の楽しみだったからニューヨークへ行って演技を勉強することにした。それは彼が18歳の時のこと」と回想している。A&E『Biography』のブランドのエピソードにおいては、ジョージ・エングルンドはブランドがニューヨークで演技に没頭した理由として「そこでは受け入れてもらえた。批判されることはなかった。人生で初めて人に褒められた」と述べている。ニューヨークに来て最初の数ヶ月は友人宅のソファで眠った。ブランドは一時期、のちに4度エミー賞を獲得するブロードウェイ・プロデューサー、ロイ・ソムリオと暮らした[23]

ブランドはステラ・アドラーの熱心な生徒、支持者であり彼女からスタニスラフスキー・システムの技術を学んだ。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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