マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
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インド独立の父、マハトマ・ガンディーに啓蒙され[5]、自身の牧師としての素養も手伝って一切抵抗しない非暴力を貫いた。一見非暴力主義は無抵抗で弱腰の姿勢と勘違いされがちだが、キングのそれは「非暴力抵抗を大衆市民不服従に発展させる。そして支配者達が「黒人は現状に満足している」と言いふらしてきた事が嘘であることを全世界中にハッキリと見せる」という決して単なる弱腰姿勢ではなかった。

公民権運動にあたっては、主として南部諸州における人種差別的取扱いがその対象となった。通常、差別的取り扱いには州法上の法的根拠が存在し、運用を実際に行う政府当局ないしは警察なども公民権運動には反対の姿勢をとることが多かったことから、公民権運動は必然的に州政府などの地域の権力との闘争という側面を有していた。合衆国においては州と連邦との二重の統治体制が設けられている中で、連邦政府ないしは北部各州は南部各州の州政府に比べれば人種差別の撤廃に肯定的であり、1957年9月の「リトルロック高校事件」など複数のケースにおいて、州政府ないしは州兵に対し連邦政府が連邦軍兵士を派遣して事態の収拾を図るケースも見られた。
「I Have a Dream」1963年8月、ワシントン大行進にて、“I Have a Dream”の演説を行うキング

アメリカ各地で公民権運動が盛り上がりを見せる中で、キングたちは首都ワシントンにおいて、リンカーンの奴隷解放宣言100年を記念する大集会を企画した。1963年8月28日に行われたワシントン大行進は参加者が20万人を超える大規模なものとなり、公民権運動家や芸能人など多くの著名人も参加した。この集会においてキングは、リンカーン記念堂の前で有名な“I Have a Dream”(私には夢がある)を含む演説を行い、人種差別の撤廃と各人種の協和という高邁な理想を簡潔な文体で訴え広く共感を呼んだ[6]

当該箇所の演説は即興にて行われたものといわれるが、アメリカ国内のみならず世界的にその内容は高く評価され、1961年1月20日に就任したジョン・F・ケネディの大統領就任演説と並び20世紀のアメリカを代表する名演説として有名である。
「公民権法」制定による勝利ホワイトハウスで公民権法施行の文書に署名するジョンソン大統領(後列中央がキング)

キングを先頭に行われたこれらの地道かつ積極的な運動の結果、アメリカ国内の世論も盛り上がりを見せ、ついにリンドン・B・ジョンソン政権下の1964年7月2日公民権法(Civil Rights Act)が制定された。これにより、建国以来200年近くの間アメリカで施行されてきた法の上における人種差別が終わりを告げることになった。

ジョンソンは人種差別感情が根強いテキサス州選出であったものの、人種差別を嫌う自らの信条のもと、自らの政権下においてキングと共にこれを強く推進した。なお公民権法案を議会に提出したのはジョンソンが副大統領であったケネディ政権時代のことであるが、ケネディは議会内において強い政治的影響力を持たなかった。そのケネディ大統領を副大統領として後押しし続けたジョンソンが、自らが大統領となったことをきっかけにキングの協力を受けて自らの政治的影響力をフルに使い、制定へ向けた議会工作を活発化させ公民権法の早期制定に持ち込むことに成功した。

公民権運動に対する多大な貢献が評価され、「アメリカ合衆国における人種偏見を終わらせるための非暴力抵抗運動」を理由にマーティンに対し1964年度のノーベル平和賞が授与されることに決まった[5](受賞発表は10月14日で、授賞式は12月10日だった)。

これはノーベル平和賞を受けるアメリカ人としては12人目だったが、当時史上最年少の受賞であり[注 2]、黒人としては3人目の受賞である。「受賞金は全てのアフリカ系アメリカ人のものだ」とコメントした。しかし当時の全てのアフリカ系アメリカ人がマーティンに同意していたわけではなく、一部の過激派・急進派はマルコムXを支持し、キングの非暴力的で融和的な方針に反発した。
マルコムXとの関係マルコムX(右)とキング(1964年3月26日)

キングとマルコムXは黒人解放運動でも穏健派と過激派の中核とみなされており、しばしば対立した。暴力的手法を含む強行的な手段による人種差別の解決を訴え、同時期に一気に支持を得て台頭し始めていたマルコムX1965年2月に暗殺されると、マルコムXとはその手段において相当の隔絶があったにもかかわらず「マルコムXの暗殺は悲劇だ。世界にはまだ、暴力で物事を解決しようとしている人々がいる」と語った。しかしその数年後、キング自身も暗殺されてしまう。暗殺されたのも彼と同じく39歳の時であった。

両者は直接長期間対談したことはなく、直接対面したのも1964年3月26日にアメリカ合衆国議会議事堂で偶然顔を合わせた時のみだった[7]

一時期は公然とキングの姿勢を批判し、自らの演説の中で非暴力抵抗を笑いものにしていた事さえあったマルコムXだったが、暗殺の前年には自らの過激な思想の中核をなしていたブラック・ムスリムのネーション・オブ・イスラム教団と手を切っていた。

同時にマルコムXは、新たな思想運動のステップを登るべく「なんとかキング牧師と会って話がしたい」と黒人社会学者ケニス・クラークの仲介で会談を持とうと模索している矢先のできごとであった。キングは、そのためマルコムXの暗殺を特に嘆いていた。
黒人解放運動の分裂「血の日曜日事件 (1965年)」および「Poor People's Campaign」も参照

ワシントンD.C.への20万人デモで最高の盛り上がりを見せ公民権法を勝ち取った黒人解放運動はその後、生前のマルコムXやその支持者を代表とする過激派や極端派などへ内部分裂を起こし、キングの非暴力抵抗は次第に時代遅れなものになっていった。

1965年3月7日には、アラバマ州のセルマから州都モンゴメリーに向かっていたデモ隊に対し、州軍と地元保安官が、催涙ガス警棒を使って攻撃をし、かれらをセルマに追い返した。「血の日曜日事件」である。これを受けたキングは再びデモ隊を率いてモンゴメリーに向かうことを計画し、3月21日に行進をスタートさせ、4日後の3月25日にモンゴメリーにデモ隊は無事到着した。

黒人運動は暴力的なものになり「ブラック・パワー」運動を提唱するストークリー・カーマイケルに代表されるような強硬的な指導者が現れ、ブラックパンサー党が結成されたり、1967年ニュージャージー州で大規模な黒人暴動が起きたりするに至って、世論を含め白人社会との新たな対立の時代に入っていく。それに呼応するように白人からの黒人に対する暴力事件も各地で増えていった。

キング牧師はその要因を自身の演説の中で以下のように分析し、「すべての罪が黒人に帰せられるべきではない」と結論付けた。
公民権法成立は黒人から見ると解放運動の最初のステップでしかなくゴールだとは認識していなかったが、白人社会は「これで問題は片付いた」とゴールだと位置づけた。

深く根付いた差別意識は依然として教育や雇用の場に蔓延しており、黒人は階段の入り口には立てても頂点には上っていけない。

差別意識により雇用の機会を奪われた黒人の失業問題は、白人に比べ深刻である。

ベトナム戦争により黒人は多数徴兵され、その多くは最前線で戦わせられている。彼らは母国で民主主義の恩恵を受けていないのに、民主主義を守るために戦争に狩り出されている。

大都市ではスラム街に黒人が押し込められ、戦争のためにそのインフラ整備等の環境問題はないがしろにされている。

ベトナム反戦運動詳細は「ベトナム反戦運動」を参照

そして、国内問題の解決が行われないままに遠い地で行われていたベトナム戦争に対する反対の意思を明確に打ち出しながら、「ブラック・パワー」に対し「グリーン・パワー」(緑はアメリカで紙幣に使われる色、つまり「金の力」)などでさらなる黒人の待遇改善を訴えていった。一方で自身でも時代遅れになりつつあることを自覚していながらも非暴力抵抗の可能性を信じ、それを黒人社会に訴えていった。

その後、キングは激化の一途をたどるベトナム戦争へのアメリカの関与に反対する、いわゆる「ベトナム反戦運動」への積極的な関与を始めるようになったが、その主張は一向になくならない人種差別に業を煮やし、暴力をも辞さない過激思想への理解すら示しつつあった「黒人社会」の主流のみならず、ベトナム戦争への関与をめぐり2つに割れつつあった「白人社会」の主流からさえ離れて行き、さらにキングを邪魔だと考える「敵」も増えていった。爆弾テロや刺殺未遂(犯人は精神障害のある黒人女性)もあったが、奇しくも命をとりとめるなど、その様な状況下でも精力的に活動を続けていた。
暗殺キングが暗殺されたモーテルキング牧師の棺詳細は「マーティン・ルーサー・キング・ジュニア暗殺事件(英語版)」を参照

1968年4月4日に遊説活動中のテネシー州メンフィスにあるメイソン・テンプルで “I've Been to the Mountaintop”(私は山頂に達した)と遊説。

その後メンフィス市内にあるロレイン・モーテルの306号室前のバルコニーで、その夜の集会での演奏音楽の曲目を打ち合わせ中に、白人男性で累犯のジェームズ・アール・レイに撃たれる。


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