クルーグ委員会は援助が行われた場合、国内の小麦・鉄鋼・石炭などの供給量が一時的に不足するが、5年間のうちに原状回復させることが可能であるとして、アメリカは巨額の援助に耐えられるとの見解を示した。ノース委員会も同様の結論に達し、対外援助は国債の新規発行や増税を伴うことなく遂行出来るとした。
ハリマン委員会は、アメリカ・ヨーロッパ間の輸出入の不均衡を是正するためには、インフレのおそれがあろうとも援助が必須であると勧告すると共に、援助の条件として民主主義の保持を挙げたことに特徴があった。また、1948年から1951年の4年間に西ヨーロッパがアメリカ大陸に対して負うであろう負債額を120億ドルから170億ドル、うち1948年分を70億ドル(各種の融資が行われる可能性を考慮した場合は57億5000万ドル)と見積もった。 下院は上記の3委員会とは別にクリスティアン・ハーターを長とする対外援助特別委員会、通称ハーター委員会を独自に設置し、2か月にわたってヨーロッパを視察するなど調査活動を行った。他の議員団もヨーロッパに渡っており、その中には若きリチャード・ニクソンの姿もあった。CEECが報告書を完成させたことにより、援助に関する焦点はアメリカ議会が承認する援助の金額や期間がどの程度となるかに移った。 この頃、フランス・イタリア両国では国際収支が悪化し、外貨が年内にも底を突くとの観測が流れた。夏の旱魃のために穀物生産も激減し、駐アメリカ大使アルベルト・タルチアーニはアチソンの後任の国務次官ロバート・A・ラヴェットに対し、このままでは11月の輸入手当も行えなくなってしまうと窮状を説明した。 これを受けてアメリカの大統領トルーマンは10月23日に特別議会を招集し、フランス、イタリア、オーストリアの3か国に対する緊急援助として、1948年3月末までに5億9700万ドル(フランス:3億2800万ドル、イタリア:2億2700万ドル、オーストリア:4200万ドル)を拠出するよう求めた[56]。この緊急援助(中間援助法案)を巡り、議会では援助額の削減を求める意見が出され、激しい論戦が展開された。最終的に原案より7500万ドル減額すると共に、中国を加えた援助とすることで妥結した。調整案は12月15日に上下両院で可決し、これにより法案は成立した。法案が首尾よく議会を通過した要因として、ヨーロッパで共産化の動きが加速したことが挙げられる。 8月31日、ハンガリーで共産党が第3党から第1党に躍進した。また9月22日から27日にかけて、ヨーロッパ9か国の共産・労働者党代表はポーランドのシュクラルスカ・ポレンバ コミンフォルム結成大会の際にソ連共産党代表アンドレイ・ジダーノフは「マーシャル・プランは国際的協調の正常な原則に反しヨーロッパの多数の国々をアメリカ資本主義の利益のもとに従属させようとする意図を秘めている」[57] との見解を表明した。また、未だ政権を掌握出来ずにいることなどを難詰され、自己批判を迫られたフランスとイタリアの共産党は政府批判を強めていた。フランスでは共産党が第1党の座に躍り出ており、連立内閣に圧力をかけていた。1947年1月に成立したラマディエ内閣は、年を越すこと無く11月に崩壊してしまう。イタリアでも同様に共産党が政権を窺う位置に付け、武力による政権奪取の可能性を示唆していた。 国際復興開発銀行役員のピエール・マンデス=フランス(後のフランス首相)は、「我々を助けてくれたのは共産党だった」と語っている[58]。 特別議会最終日の12月19日、トルーマンは特別教書を議会に提出した。トルーマンはこの教書で、「過去20年間の苦い経験が教える所では、アメリカ合衆国程の強力な経済でさえも貧困と欠乏の世界の中で繁栄を維持することは出来ない」[59]と指摘した。そして1948年4月1日から1952年6月30日までの間に、西ヨーロッパ16か国に170億ドルを供与するよう要求すると共に、援助の実施機関として「経済協力局(Economic Cooperation Administration、ECA)」を設置する提案を行った。 年が明けて1948年1月6日、第80議会が再開された。トルーマンが提出した一般教書は、援助全体のうち初年度分に相当する15か月間の援助(1948年4月1日から1949年6月30日までの期間に68億ドル)のみを要請し、主にこの援助内容の是非を巡る論戦が交わされた。この時も下院を中心に援助額の削減を図る主張が相次いだ。また中国・ギリシャ・トルコに対する追加援助と抱き合わせにすべきだとする主張も強かった。一連の議論の間、議会の外では援助法案の成立を側面から支援する動きが現れた。 1947年10月末、元陸軍長官ヘンリー・スティムソンを全国委員長とする「ヨーロッパ復興を支援するためのマーシャル・プラン委員会」なる支持委員会が結成された。委員会は総勢330余名からなり、執行委員会には国務次官を辞任して間もないアチソンやパターソン前陸軍長官が名を連ねた。また全国評議会にはGEやIBM、JPモルガン、チェース・マンハッタンなど巨大企業の代表の他、報道関係者や法曹関係者、有力労働組合代表など、多様な分野から参加者が集った。
アメリカ議会
緊急援助
議会再開「1948年対外援助法」の第1頁。「アメリカ合衆国第80議会第2会期は、1948年1月6日火曜日にワシントン市で開会・審議された」とある