マーシャル・プラン
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トルーマンはアーサー・ヴァンデンバーグ[注釈 4]ら有力議員8名を招き、対ギリシャ・トルコ援助への協力を事前に取り付けた。
トルーマン・ドクトリン

同年3月12日、上下両院合同会議の場においてトルーマンは特別教書を発表した。いわゆる「トルーマン・ドクトリン」である。トルーマンは、イギリスが対ギリシャ・トルコ援助の打ち切りを通告したことに触れ、ギリシャおよびトルコの現状について説き起こした。

この教書の中でトルーマンは、世界のほぼ全ての国々が否応なく「2つの生活様式」即ち自由主義全体主義の選択を迫られているという二元論的な外交理念を提示すると同時に、「武装した少数者や外部からの圧力による征服の試みに抵抗している自由な諸国民を支持することこそ合衆国の政策でなければならないと信じる」と語った。そして、ギリシャやトルコが全体主義者の手に落ちればその影響は両国のみに留まらないと主張し、両国に対する経済的・軍事的援助として、1948年6月末までに4億ドルの支出と民間人・軍人の派遣を認めるよう議会に要請した。

4億ドルという額についてトルーマンは、アメリカが大戦中に支出した戦費(3410億ドル)の0.1パーセント強に過ぎないと語り、負担に充分耐え得ることを強調した。そして、自由主義世界を全体主義体制から守る責務を全うできる国家は今やアメリカをおいて他にないとして、上記の提案に賛同することを議会に求めたのである。

この演説は名指しこそ避けたものの、ソ連の影響力が地中海沿岸地域にまで及ぶことを警戒する内容となっていた。ギリシャ・トルコ危機という地域問題はこの演説によって世界規模の問題として捉えられ、その背後にはアメリカとソ連の対立という図式が潜んでいるとする認識が同時に示されたのである[注釈 5]

この演説は広汎な支持の獲得に成功したという。しかし国務省からは演説内容に対する驚きの声が上がった。反共的な主張の並んだ草稿に驚いたマーシャルは、事態を過大に言い過ぎているとの電報をトルーマンに宛てて送信した[6]。また、ケナンは草稿を読んで「これはまずいな」と懸念した。ケナンはギリシャへの経済・技術援助には賛同しつつも、軍事援助には消極的であった。また、局地的問題を普遍化するかのような言辞にも反対した[7]
モスクワ外相会談4か国分割占領下のドイツ。1947年時点では、このうちイギリスとアメリカの占領区域が経済統合を実現していた

この頃、モスクワではアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト連邦の4か国の外相による会談が進行中であった。

枢軸国のうち、イタリアハンガリーブルガリアなどとの講和は1946年11月のニューヨーク外相会談で決着し、翌年初頭に講和条約調印を実現した。残るドイツオーストリアとの講和問題を議題として開催されたのが、モスクワ外相会談である。4か国は1947年3月10日から4月24日まで45日間にわたって議論を交わしたが、各国の利害が鋭く対立し、とりわけドイツの処理問題は困難を極めた。主な争点は以下の諸点である。

ドイツ臨時政府の政治体制について。アメリカとイギリスは連邦制を採るべきであると主張したが、ソ連は中央集権制を主張した。フランスはドイツの復活が自国の安全保障に及ぼす影響を懸念し、臨時政府の早期樹立自体に難色を示した。

ドイツの経済復興について。ソ連は200億ドル(うち対ソ連分として100億ドル)相当の経常生産物賠償[注釈 6]をドイツに要求する賠償20年案を提示するとともに、先に米英両国が取り交わした両国占領区域間の経済統合協定の撤廃およびルール地域の4か国共同管理を主張した。対してアメリカとイギリスは、ドイツの賠償支払能力は10年間に30億ドル程度であるとして、賠償請求よりも経済力の回復を図るためにポツダム協定によって制限されている工業水準の引き上げおよび各占領区域の経済統合を求めた。一方、ドイツが持つ資源を極力自国のために利用したいフランスは、ドイツの石炭をフランスへ優先的に供給するよう主張した[注釈 7]

対オーストリア講和問題も、一定の前進こそあったものの結論は先送りされた。こうして会談は見るべき成果の無いまま、議題を次回に持ち越して閉幕した。会談に出席したマーシャルは、ドイツ処理問題におけるソ連の強硬姿勢の背後には「問題の長期化はヨーロッパ経済に悪影響を及ぼす。それはソ連にとって有利に働く」との意図があるとみた。その確信は、国務長官特別補佐官チャールズ・ボーレンを伴ってヨシフ・スターリンを表敬訪問した際、いよいよ強固なものとなった。ドイツ問題の早期解決を訴えるマーシャルに対し、スターリンは無関心であるかのような回答を返した。曰く「我々は、次回には合意に至るであろう。その時でなければその次には」[10]。モスクワからの帰途、マーシャルはボーレンに対して西ヨーロッパの完全崩壊を防止する手立てを考えねばならないと語った。

1944年9月に当時の財務長官ヘンリー・モーゲンソーが主唱したモーゲンソー・プランは、ドイツの軍需産業を徹底破壊して同国を農業国化するという懲罰的なドイツ政策を志向したが、この案は国務省・陸軍省・イギリスの猛反対を受けて影響力を失った。2年後の1946年9月に当時の国務長官ジェームズ・バーンズシュトゥットガルトで行った演説「ドイツ政策の見直し」では、ドイツはヨーロッパの一部であって、ドイツの復興はヨーロッパ復興の一部をなすものであるとの認識の下、ドイツの経済的自立の重要性が謳われた[注釈 8]。1947年3月18日にはフーヴァー使節団が、ドイツの工業力を基礎とした西ヨーロッパ復興を大統領に勧告する報告書を提出した[11]。在独合衆国軍政当局(Office of Military Government for Germany, United States, OMGUS)も占領経費削減という見地からドイツ復興を推進した[12]


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