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CEECは報告書作成のためにアメリカの助力を求める[注釈 23]

CEECは9月1日までに報告書を策定することを期して、必要とする援助額の算定を開始した。アメリカとも頻繁に事前協議を行ったが、調整作業は難航した。アメリカはドイツの潜在的経済力をヨーロッパ復興のために活用することを考えていた。イギリス・アメリカ占領区域の統合を進めることで合意していた米英両国は、同区域内での通貨統合を実現した。7月12日には、前年3月に連合国ドイツ管理理事会が設定していた、「西部ドイツの工業水準の上限を1936年時点の70パーセントから75パーセントに制限する」との規定を撤廃し、上限を100パーセントに引き上げることで米英間の合意がなされていた。しかしフランスは国内にドイツの軍事力強化を懸念する声が強く、また賠償に充てられる資金の削減を招く可能性があることから、保守・革新を問わず反対が予想されるとして、この合意案に強く反発した。アメリカは8月22日から開催された米英仏3国会談で、ドイツの工業水準引き上げの代償としてフランスに発言権を付与することで妥協した。

議論は援助を必要とする額の算定を巡っても紛糾した。CEECは西部ドイツや属領をも含めた全参加国のアメリカ大陸全体に対する貿易赤字は、1948年から1951年までの間に282億ドル、うち対アメリカ赤字は199億ドルになると試算した。しかしこれはアメリカ側の予想をはるかに上回る額であった[注釈 24]。ここに至ってアメリカはヨーロッパの自主性尊重という建前を破り、計画策定作業に直接介入した。

9月上旬にアメリカはCEEC参加各国に対して共同で不足額を削減することと、またITO憲章の理念に違背する貿易障壁を打破し、かつ国内通貨を安定させる方策を盛り込むことを要求した。さらにイギリスには、ドイツの英米統合占領区域を確実に復興計画に含めるよう求めたのである。この為OEECは復興計画の練り直しを余儀無くされた。結局報告書は当初の期日である9月1日には間に合わず、9月22日に完成をみた。
CEEC報告書

報告書は前文および本文8章からなり、参加16か国・西部ドイツ・各国の植民地保護領を対象とした4か年計画として策定された。その要旨は以下の通りである。

ヨーロッパ内の食糧・木材供給地域の壊滅・貿易の中断・財政の不均衡・東南アジアからの食料・工業用原料供給の不足などにより、ヨーロッパは疲弊している。これらが第二次大戦によってもたらされたのは明らかである。大戦は世界第2位の富を有するヨーロッパに深刻な打撃を与え、巨額のドル不足を招いた(第1章)。

故に各国が自国産業を戦前の水準以上に回復させる一方で、域内での経済協力を推進して輸出競争力を拡大し、ドル不足を是正する必要がある。より具体的には、既存の物的・人的資源の活用、生産設備の近代化、インフレ抑制などの対策を講じることが重要である。これらの施策により国内の財政安定に努め、将来的には各国通貨の交換性回復を目指す。また、現在は域内の通商が制限されているが、生産回復などによって条件が整った時にはこれを遅滞無く撤廃し、多角的貿易体制を確立する。ヨーロッパ関税同盟については今後可能性を検討する。

参加各国は輸入の45パーセントをアメリカ州に依存していたが、東南アジアや東ヨーロッパからの供給減少によって今後対米依存度が高まり、ドル不足を拡大させるおそれがある。これを改善させるためには、アメリカからの援助が必要である。特に、初年度の援助が決定的に重要な意味を持つ。そして9月22日にCEECの報告書はヨーロッパ復興委員会の全体会議に提出された。全体会議は報告書を承認し、国務省に送付した。アメリカとの対立がみられた不足額の算定に関しては、4年間で224億4000万ドル(1948年80億4000万ドル・1949年63億5000万ドル・1950年46億5000万ドル・1951年34億ドル)と推計し、国際機関からの援助を除くと193億1000万ドルになるとした[53]。なお、通貨の交換性回復に関しては、7月にイギリスが英米金融協定の規定に基づきポンドの交換性回復を宣言した[注釈 25]しかし多額の資本流出を招き、わずか1ヶ月余りで交換性の再凍結を余儀無くされた。対してベネルクス3国は10月に逸早く関税同盟を結成し、翌年発効に漕ぎ着けた。
アメリカの動向
3つの委員会

一方アメリカ側も援助の規模について独自の調査をしていた。ハーヴァード演説から半月余りの6月22日にトルーマンは3つの大統領諮問委員会の設置を発表した[注釈 26]
内務長官ジュリアス・クルーグを長とする委員会。アメリカの保有資源の現況について調査すると共に、対外援助がアメリカの安全保障や国民生活にいかなる影響を及ぼすかを検討した。

大統領経済諮問委員会委員長エドウィン・ノースを長とする委員会。対外援助がアメリカの消費や物価に与える影響について調査した。

商務長官アヴェレル・ハリマンを長とする委員会[注釈 27]。アメリカが供与しうる援助量の上限はどの程度かという問題などについて検討した。同委員会は前2者と異なり、実業家や学者など民間人で構成されていた。

クルーグ委員会は援助が行われた場合、国内の小麦鉄鋼石炭などの供給量が一時的に不足するが、5年間のうちに原状回復させることが可能であるとして、アメリカは巨額の援助に耐えられるとの見解を示した。ノース委員会も同様の結論に達し、対外援助は国債の新規発行や増税を伴うことなく遂行出来るとした。

ハリマン委員会は、アメリカ・ヨーロッパ間の輸出入の不均衡を是正するためには、インフレのおそれがあろうとも援助が必須であると勧告すると共に、援助の条件として民主主義の保持を挙げたことに特徴があった。また、1948年から1951年の4年間に西ヨーロッパがアメリカ大陸に対して負うであろう負債額を120億ドルから170億ドル、うち1948年分を70億ドル(各種の融資が行われる可能性を考慮した場合は57億5000万ドル)と見積もった。
アメリカ議会

下院は上記の3委員会とは別にクリスティアン・ハーターを長とする対外援助特別委員会、通称ハーター委員会を独自に設置し、2か月にわたってヨーロッパを視察するなど調査活動を行った。他の議員団もヨーロッパに渡っており、その中には若きリチャード・ニクソンの姿もあった。CEECが報告書を完成させたことにより、援助に関する焦点はアメリカ議会が承認する援助の金額や期間がどの程度となるかに移った。
緊急援助

この頃、フランス・イタリア両国では国際収支が悪化し、外貨が年内にも底を突くとの観測が流れた。夏の旱魃のために穀物生産も激減し、駐アメリカ大使アルベルト・タルチアーニはアチソンの後任の国務次官ロバート・A・ラヴェットに対し、このままでは11月の輸入手当も行えなくなってしまうと窮状を説明した。

これを受けてアメリカの大統領トルーマンは10月23日に特別議会を招集し、フランス、イタリア、オーストリアの3か国に対する緊急援助として、1948年3月末までに5億9700万ドル(フランス:3億2800万ドル、イタリア:2億2700万ドル、オーストリア:4200万ドル)を拠出するよう求めた[56]


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