マーシャル・プラン
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マーシャルの演説内容はBBCラジオ放送によってイギリスにもたらされた[注釈 16]。ラジオを聞いたイギリスの外務大臣アーネスト・ベヴィンは直ちに行動を開始した。ベヴィンは翌日に首相クレメント・アトリーと面会し、援助の受け入れについて協議した。この時点では、ハーヴァード演説がアメリカの国策としてなされた提案なのか否かすらも明確でなかったが、アトリーは援助受け入れを即断し、本件に関する事務をベヴィンに一任した。これを受けてベヴィンは駐フランス大使ダフ・クーパーに電報を打ち、フランスの外相ジョルジュ・ビドーとの会談の段取りを整えるよう命じた。

英仏首脳会談は6月17日からパリで開催された。両国は共に援助の詳細を決めるに当たって主導権を掌握し、自国の存在感を高めたいとの思惑を持ちながら会談に臨んだ[注釈 17]

イギリス大使館で開催された初日の会談で両国はマーシャルの提案を受け入れることで合意し、作業委員会を早急に設置することとした。同時にベヴィンは国際連合の組織を通じて援助を実施するように見せつつ、実際には国際連合を迂回することが必要だと主張し、ビドーもこれに同意した。援助実施機関を国際連合の組織とすれば、国際連合加盟国であるソビエト連邦が妨害工作を行うのではと懸念した為であった[注釈 18]

2日目の会談は場所をフランス外務省に移して行われた。この日の主要な議題は、ソ連に対する扱いをどうするかであった。フランスのポール・ラマディエ首相とビドーは、議論を進めるためにはソ連との協議が必要であると語り、ベヴィンも反対しなかった。続けてビドーが、次回の会談をモスクワで行うことを提案したところ、ソ連の協力に懐疑的なベヴィンは「クレムリンから肘鉄を食らうためにモスクワに行くのは御免被りたい」[39] と難色を示した。

この結果、英仏はソ連をパリに招いて会談を行うことで合意した。しかし新聞発表の際には開催地を明かさず、英仏外相の連名でソ連に宛てて書簡を送り、ロンドンかパリかをソ連に選ばせることにした。同時にベヴィンはソ連が不参加もしくは日和見の態度を表明した場合、直ちに準備委員会の設立に着手することを提案した。
英仏ソ外相会談

ソ連は英仏の求めに応じ、外相ヴャチェスラフ・モロトフをパリへ派遣することが決定した。これを受けてイギリス・フランス・ソビエト連邦の3か国による外相会談が6月27日からパリで開催された。会談前日にパリに到着したモロトフは、英仏がソ連のあずかり知らぬところで如何なる合意に到達しているのかとビドーに尋ねた。モロトフは会談初日にも、ハーヴァード演説以上の内容を英仏が入手しているのではないかと質問した。ベヴィンとビドーはモロトフが知っている以上のことは何も無いとして、疑念の払拭に努めた。

だがモロトフの疑惑は必ずしも故無きものでは無かった。アメリカは外相会談直前にクレイトンをロンドンへ派遣し、アトリーとベヴィンを始めとする与党の労働党首脳と事前協議を行っていた。クレイトンは、対イギリス援助はヨーロッパの共同計画の中で扱われること、対ソ援助はソ連が大幅な政策転換をしない限り行われないであろうことを言明していた[40]

続いてモロトフは、アメリカが用意している援助額は正確にはいくらなのか・この援助をアメリカ議会が可決するか否かについて問うた。これに対してベヴィンは、「借り手である我々がアメリカに対して条件を付すことは出来ない」「民主主義社会では行政府は立法府に関与することは出来ない」と切り返した。その後3者は以下の諸点を巡って議論を戦わせた。

計画の作成方法について。英仏がハーヴァード演説の趣旨に基づき、全ヨーロッパが共同で計画を作成することを求めたのに対し、ソ連は「小国が大国に従属する結果を招く」として反対し、ヨーロッパ各国が必要な援助額を個別に算定し、その合計額をアメリカに提示する方法を主張した。

情報の開示について。共同計画の策定を主張する英仏は、その前提として各国が保有する資源の現況を調査する必要があるとしたが、ソ連はこれを経済主権の侵害であるとして頑強に反対した。

参加国の範囲について。英仏はフランコ独裁政権下のスペインを除く全ヨーロッパを援助対象とする案を提示したが、ソ連はヨーロッパの「連合国」に限定すべきであるとした。

援助計画を大いに警戒していたソ連は、東ヨーロッパ諸国が援助を切望している状況をも認識していた。ビドーによれば、モロトフの発言には曖昧なところがあったという。しかし3日目の会議の席上でスターリンからの指令と思しきメモがモロトフの元に届けられると、モロトフは共同計画に繰り返し反対の意を示した。

最終日にモロトフは、この援助計画はヨーロッパ諸国に対する内政干渉であり、計画執行のために設置される委員会は各国を支配するための道具に過ぎないと指弾した。ベヴィンはヨーロッパ各国に招請状を出すつもりであることを告げた。

こうして3国外相会談は決裂した。英仏両国はヨーロッパ側の受け入れ態勢の確立に向け動き出した。なおソ連が計画を拒絶した理由として、以下の諸点が挙げられる[41]

共同計画は一国単位での経済政策を進めるソ連の方針と相容れなかった。加えてソ連は極度の統制経済を奉じており、諸外国との貿易は国家が独占的に行うと共に、金や外貨の準備高を始めとする重要な統計資料を秘匿していた。全ヨーロッパが共同で計画を策定するためにはこうした情報の開示が不可欠であるが、これを公開すればソ連経済の厳しい内情が露見するおそれがあった。

ソ連は緩衝地帯を出来るだけモスクワから離れたところに置くために、東ヨーロッパを勢力圏として抱える必要があった。また経済再建を順調に進めるためには東ヨーロッパ諸国(とりわけチェコスロヴァキアやポーランド)の存在は重要であった。援助計画に東ヨーロッパが参加すれば、ソ連と東ヨーロッパとの紐帯は弱まり、また西部ドイツからの賠償も停止するおそれがあった。

ソ連は援助計画がヨーロッパに対するアメリカの影響力強化を招くことを懸念した。これまでアメリカはモンロー・ドクトリンに基づき、ヨーロッパ情勢には積極的に関与しなかったが、今回の援助が実施されれば、ヨーロッパに対して大きな恩を売ることになり、ヨーロッパ進出に向けた橋頭堡を築くことができる。それはソ連の経済や安全保障に悪影響を及ぼすと考えられた。

東ヨーロッパの離脱(モロトフ・プラン)

3国外相会談後に英仏両国は分割占領下のドイツ・フランコ統治下のスペインと、アンドラリヒテンシュタインモナコサンマリノといった小国家群を除くヨーロッパ22か国に対し、ヨーロッパ復興会議への招請状を発した。


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