マーシャル・プラン
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事態収拾のため5月19日に一時帰国[注釈 11]したクレイトンは、約1か月にわたるヨーロッパ視察の結果をまとめ、5月27日に覚書「ヨーロッパの危機」を提出した[26]

覚書は10項目の指摘事項からなる。クレイトンはヨーロッパの危機の根源を大戦による経済の荒廃に求めると共に、それが生産に及ぼす影響(産業の国有化や急激な土地改革・通商関係の断絶・私企業の消滅など)に関してはこれまで充分考慮されてこなかったと指摘した(第1項)。さらにクレイトンは、以下のように主張した。政治情勢は経済情勢を反映しており、次々と生じる政治危機は重大な経済的困窮を示しているに他ならない。都市と農村との間で成立していた「近代的分業体制は、ヨーロッパではほとんど崩壊してしまった」ため、自国通貨に対する信用回復が不可欠である(第2項)。

ヨーロッパ主要諸国の年間支払不足額はイギリスが22億5000万ドル、フランスが17億5000万ドル、イタリアが5億ドル、ドイツ(英米統合占領区域)が5億ドル、合計で50億ドルに上るとみられる。英仏は「今年の末までのみ」とドルの準備を取り崩して不足額を埋めることも出来ようが、イタリアはそれまでもたないであろう(第3項。強調は原文)。アメリカからの援助が無ければ「経済的・社会的・政治的崩壊がヨーロッパを沈めてしまうであろう」。もしそうなれば、アメリカは余剰生産物の為の市場を失うと共に、失業恐慌などといった甚大な影響を蒙るであろう。「このような事態が起こってはならない」(第5項。強調は原文)。故に、「(ロシアからではなく)飢餓と混乱からヨーロッパを救うために」アメリカ国民自身が若干の犠牲を差し出す必要がある(第7項。強調は原文)。その犠牲とは石炭・食糧・綿花など余剰生産物を中心に、「3年間にわたり毎年60億または70億ドル相当の物資を贈与する」ことである(第8項)。こうした援助は、英仏伊を中心としてヨーロッパの共同計画に基づいて供与されるべきであり、これに関連してヨーロッパはベネルクス(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)関税同盟のような経済連合を組織する必要性がある(第9項)。

最後にクレイトンは、「我々は別のタイプのUNRRAに陥るのを避けねばならない。合衆国がこのショーを仕切らねばならない」(第10項。強調は原文)と述べ、国際機関を通じての援助を否定した[注釈 12]
国務省首脳会議

5月28日、国務省の首脳会議が開催され、長官のマーシャル以下、アチソンおよびクレイトンの両次官、国務省顧問コーエン、国務長官特別補佐官ボーレン、経済問題担当国務次官補ソープ(Willard Long Thorp)、政策企画本部長ケナンらが出席した。会議では、政策企画本部の報告書とクレイトンの覚書とについての検討が中心議題として取り上げられた[27]

討議は主に以下の3点を巡って展開された。
ソ連主導下の東ヨーロッパ諸国を援助対象に含めるか否か。

アメリカとヨーロッパのいずれが援助計画作成作業を主導すべきか。

援助計画の実施時期と実施機関をどうするか。

援助対象地域については、アメリカがヨーロッパ分裂の責めを負うべきではないという点では全員が一致していた[28]。しかし、それが東ヨーロッパ諸国の参加の容認を意味するのか否かに関しては、ケナンとクレイトンはやや見解を異にしていた。ケナンは参加国を特定する表現はとらず、ソ連が好意的な気配を示せば参加を容認する用意があるとして、「我々の手でヨーロッパに分割線を引く気はない」と語った。これに対してクレイトンは「西ヨーロッパは東ヨーロッパにとって不可欠であるが、逆は真ならず」と語り、無理に東欧を含める必要はないとの立場を明らかにした。そして、東ヨーロッパの石炭や食糧は西ヨーロッパの復興にとって重要であるが、ソ連が東ヨーロッパを軍事的に支配しない限り、東ヨーロッパは外貨獲得のためにそれらを西側に輸出せざるを得ないが故に、東ヨーロッパを抜きにしてもその資源を活用できるとした。結局「計画は、東ヨーロッパ諸国が自国経済の排他的に近いソヴィエト志向を放棄すれば参加できるような条件で立案されるべきである」との結論に至った。東ヨーロッパにとって厳しい条件が付せられてはいるが、この時点では未だヨーロッパ分裂は固定的には理解されていなかったことが判る。ただし、実施段階では東ヨーロッパからの参加国は現れず、アメリカも無理に東ヨーロッパ諸国を引き入れようとした形跡もないことから、ソ連と事を構えてまで東ヨーロッパを抱き込む意志は無かったと考えてよいであろう[29]

計画の主導性については、ケナンは先に提出した報告書「PPS1」に則り、ヨーロッパに主導権を付与すべきであると主張したが、コーエンやソープは、ヨーロッパは各国の意見を調整する資質に欠けており、統一的計画を作成出来るとは考え難いとして、アメリカが実質的な責任と主導権を掌握した上で計画を進めるべきであると強調した。クレイトンもアメリカが一定の影響力を保持すべしとの考えであった。この件に関して、首脳会議がいかなる結論に達したのかは明らかではないが、その後の推移を見る限り、ヨーロッパの自主性を尊重しながらも動向を注意深く観察するといった折衷案が採用されたものと推察される[30]

実施機関について、殊にECEを実施機関とすべきか否かについても意見が割れた。クレイトンは、ECEはソ連の妨害が懸念されるため「全く利用出来ない」と断じ、英仏伊およびベネルクスの計6か国による代表との予備的議論の場を持つよう提案した。これに対しては、国際連合機関を迂回すれば世論の反発を招いて計画が頓挫するおそれがあるため、最初だけでもECEに付託すべきであるとの反論が挙がった。これについても結論は詳らかにされていないが、ケナンが「ECEをヨーロッパ復興計画のセンターとして利用したいと希望していたわれわれは、ウィル・クレイトンがヨーロッパから帰国して、ECE第1回会議でのソビエト代表の行動について報告すると、深刻な挫折感を味わった」[31]と回想していること、そしてECEが援助任務を担うことが遂になかったことを考慮すると、クレイトンの主張が通ったものとみられる[32]

こうした紆余曲折の末、マーシャルは援助計画の発表に臨んだのである。
演説第50代アメリカ合衆国国務長官ジョージ・マーシャル

ハーヴァード大学はマーシャルに対し、戦時中に彼が成した功績を顕彰して法学博士名誉学位の授与を申し出ると共に、学位授与式の際に記念講演を行うようかねてより打診していた。これを受諾したマーシャルはボーレンに、ケナンやクレイトンの覚書を下敷きにして演説文を起草するよう命じた[33]。6月2日に書き上げられた草稿は、アチソン、クレイトンによる内容確認とマーシャルによる若干の修正を経て、演説の場に持ち込まれた。

6月5日、マーシャルは大学構内に建つメモリアル・チャーチの階段に登壇し、記念講演を行った。この講演でマーシャルは、欧州援助計画の構想を初めて公にした[注釈 13]

「世界情勢が非常に深刻であることは言うまでもない」と切り出したマーシャルは、「問題が極めて複雑であるがために」一般国民にはこの深刻な事態の把握が困難になっているとして、まず援助を行う理由即ちヨーロッパの危機的状況について説明を始めた。
要旨


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