マーシャル・プラン
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これに応じた西ヨーロッパ16か国は、復興4か年計画と援助所要額をまとめた報告書を共同で作成してアメリカの援助を仰ぐと共に、援助受け入れ機関として欧州経済協力機構(OEEC) を設置した[注釈 1]。一方アメリカは援助政策の根拠法たる「1948年対外援助法」を制定し、実施機関として経済協力局(ECA)を設置した。援助は旧敵国(枢軸国)にも供与され、イタリアオーストリアが原参加国に名を連ねた他、アメリカ・イギリスフランス3か国の占領下にあったドイツ西部(のち西ドイツとなる)も援助対象として認められた。

マーシャル・プランは西ヨーロッパ諸国の戦後復興に一定の貢献をし、またアメリカ企業には巨大なヨーロッパ市場を提供した。ソ連および東ヨーロッパ諸国はモロトフ・プランで対抗したため、ヨーロッパの東西分断が加速したが、その一方で西ヨーロッパ諸国間の統合への動きは進展した。アメリカは無償贈与を中心に100億ドルを超える援助を供与したが、後半期には軍事援助に重点が移り、1951年10月に施行された相互安全保障法に基づく援助に吸収された。

マーシャル・プランはアメリカ史上屈指の成功を収めた対外政策と見做され、マーシャルは計画を推進した功績によってノーベル平和賞を受賞した。しかし、経済史の分野ではその経済効果を疑問視する見解が出され、議論を呼んでいる。外交史的見地からは、従来は反共政策としての側面が強調される傾向にあったが、新たな視点からの研究成果も現れている。

一方、アメリカは中華民国大韓民国にも工業および農業改革の復興を援助する計画をしていた。そのためアメリカは?介石に対し内戦を回避して中国共産党を含めた国民党主導下の統一政府樹立と共産党軍の国民党軍への編入を要求したが、?介石がマーシャルの調停した国共停戦協定を無視して中国共産党への軍事攻勢を行ったことにより、アメリカの大統領ハリー・S・トルーマンが「中国の内戦に巻き込まれることを避けつつ、中国国民が中国に平和と経済復興をもたらすのを援助する」だけであるとして中国に派遣していたマーシャルの召喚と中国内戦からのアメリカの撤退を表明し、結果として1949年10月に中華人民共和国が建国されることになり、計画は破綻した。同時に大韓民国への援助計画も朝鮮半島情勢の悪化により頓挫した。
前史
援助停止通告

1947年2月21日(金曜日)の午後遅く、駐アメリカ合衆国大使を務めるアーチボルド・クラーク・カー男爵の一等書記官であるM・H・サイチェルが国務省を訪れた。大使から覚書を託された書記官は、応対した国務次官ディーン・アチソンに対し、国務長官ジョージ・マーシャルとの面会を求めた。しかし、当のマーシャルはプリンストン大学創立200年祭で記念講演を行うため、国務省を発ったばかりであった。覚書は緊急の検討を要したが、国務長官宛の正式文書を他の者が受け取ることは出来ないため、応急処置として覚書の写しを国務省近東・アフリカ局長ロイ・ウェズリー・ヘンダーソンに手渡し、正本は後日マーシャルに渡すことにした[1]

サイチェルは覚書を2通携えていた。1通目はギリシャに関するもので、イギリスが3月31日を限りにギリシャに対する援助を打ち切らざるを得ないとして、年間6000万から7000万ポンド[注釈 2]の肩代わりをアメリカに求めた。もう1通はトルコに関するもので、軍の近代化と経済発展の両立が困難であること、トルコの戦略的・軍事的位置について英米連合参謀本部で協議する用意があることや、トルコ軍拡充の為の財政援助をアメリカが行うよう期待することが記されていた[2]
ギリシャ・トルコ情勢

大戦後のギリシャ・トルコ両国は、以下のような情勢下にあった。

ギリシャでは第二次世界大戦中、共産党系の民族解放戦線(Ethnikon Apelefyherotikon Metpon, EAM)とその軍事組織であるギリシャ人民解放軍(Elinikos Laikos Apeleftherotikos Stratos, ELAS)が枢軸国に対するレジスタンス運動を展開していたが、1944年のドイツ軍撤退後にカイロパパンドレウ亡命政府が首都のアテネ入りを果たすと、同政府の中心である右派・王党派勢力とEAMとの間で衝突が起こった(ギリシャ内戦)。

イギリスは王党派を援助してきたが、これに対して内外から批判が挙がった。加えて1946年から翌年にかけての冬は実に66年ぶりの厳冬となったため、国内では深刻な燃料危機が発生した。イギリスは大戦で経済が疲弊した上、巨額の対アメリカ借款を抱えており、援助政策の再考を迫られていた。

経済情勢も深刻で、工業生産は戦前の40パーセント程度に留まっていた。1946年末にアメリカを訪問したギリシャのツァルダリス首相はギリシャ経済の窮状を説明し、今後5年間に12億4600万ドルの援助が必要であると訴えた。

一方トルコでは、ボスポラスダーダネルス両海峡の管理を巡る問題が発生した。両海峡は1936年11月以来モントルー条約に則って管理されてきたが、1946年中に改訂することがポツダム会談で合意されていた。これを受けて1946年8月7日にソ連はトルコに覚書を送付し、黒海沿岸諸国の軍艦の自由航行やソ連の軍事基地建設を前提とするソ連・トルコの海峡共同防衛などを提案した。


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