マーシャル・プラン
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^ ソ連はこれまで生産設備を移送させる方式での賠償取立てを実施してきたが、移送の不手際が元で設備に不具合が生じる事例が相次いだことから、賠償方式を転換した[8]
^ この頃フランスは独自の経済再建計画「モネ・プラン (Monnet Plan) 」を実施していたが、それはドイツ炭の供給を前提としており、ドイツの工業水準が引き上げられれば計画に狂いが生じるおそれがあった。結局フランスはマーシャル・プランを受け入れる道を選び、1948年秋にモネ・プランを修正した[9]
^ 演説の全文は、以下に掲載されている。 ⇒United States Secretary of State James F. Byrnes Stuttgart speech, September 6, 1946.
^ この間の動向を追った作品として、ジョーゼフ・ジョーンズが著した『15週間』がある(Jones, Joseph M. The Fifteen Weeks: February 21 - June 5 1947, New York: Harcourt, Brace and Co., 1955.)。日本語文献では、(油井.戦後世界秩序の形成)が詳しい。
^ 7日前の5月16日に政策企画本部がアチソンに提出した覚書でも、この構想は「欧州のための石炭(Coal for Europe)」計画の名で現れている。 ⇒Memorandum by the Director of the Policy Planning Staff (Kennan), FRUS 1947, Vol. III, p. 222. また、6月2日付文書「欧州石炭生産の増加について」でこれを敷衍している。
^ クレイトンは帰国後、関税引き上げの法案が通れば準備委員会は失敗に終わるとトルーマンに警告した。農務長官クリントン・アンダーソン拒否権発動に反対したが、トルーマンはクレイトンに従い拒否権を行使し、さらに毛織物の輸入関税を25%引き下げる権限をクレイトンに付与した。こうして準備委員会の決裂は回避された(佐藤信一 1978, p. 126)。
^ 戦災被害国の救済を目的として発足した連合国救済復興機関 (UNRRA) は、アメリカが活動資金の7割以上を拠出したにもかかわらず、他の参加諸国との調整を図る必要上、アメリカの発言権は抑制された。この結果、既にソ連の衛星国となりつつあった東ヨーロッパに対しても援助がなされたが、これについて「共産勢力を利するのみである」とするUNRRA不用論がアメリカ国内で相次いだ。クレイトンはこの前例を踏まえ、UNRRAの二の舞を演じるのを避けるためにも、アメリカの負担で行う援助の方向性はアメリカ自身が決めることができて然るべきだと主張しているのである。(牧野裕 1993, p. 299-300)。紀平『パクス・アメリカーナへの道』、232頁。
なお、クレイトン覚書提出の翌月、UNRRAは欧州内での活動を停止した。
^ アチソンは、「卒業式の演説というものは身を入れて聞くものではなく、我慢するだけの儀礼的儀式であるから」、記念講演で欧州情勢について言及することは避けた方がよいと進言したが、マーシャルは記念講演の席を援助計画の発表の場に選んだ[34]
^ ここでいう「この数か月の間 (during recent months) 」とはどの程度の期間なのか、即ち、米国が欧州経済の危機を認識したのがいつの時点なのかに関しては、「英国が対ギリシャ・トルコ援助の打ち切りを通告した1947年2月下旬」とする説(ジョーゼフ・ジョーンズら)と、「モスクワ外相会談が決裂した1947年4月下旬」とする説(ジョン・ギンベル (John Gimbel) ら)とに大別される。本項では前者に従った。
^ マーシャルは演説の際、プレス・リリースにないくだりを追加している。演説の草稿は トルーマン図書館内資料 や『合衆国の対外関係』 ( ⇒Press Release Issued by the Department of State, June 4, 1947, FRUS 1947, Vol. III, pp. 237-239.) を始めとする英語文献で、実際の演説内容は ⇒OECDホームページ などで見ることができる。日本語文献では、油井「マーシャル・プラン」(『原典アメリカ史(第6巻)』に所収)や『中央公論』(第112巻第8号、1997年)がプレス・リリースを、永田『マーシャル・プラン』(249-253頁)が実際の演説を邦訳している。永田の邦訳では、演説とプレス・リリースとの相違点が示されている。
演説の原文および邦訳に関しては、ウィキソースも参照。
^ 援助構想に関する国内世論の醸成ができていないのではと懸念したアメリカ政府は、演説当日にトルーマンの記者会見を設定してアメリカの報道機関の目を逸らした。その一方で、援助対象たるヨーロッパの為政者らには構想が広く伝わることを希望したため、アチソンがイギリスの報道機関の記者らと食事をした際に、会話の中で援助構想の存在について示唆していた。昼食を共にした1人であるBBC特派員レナード・マイオール (Leonard Miall) は、自身の担当する番組「米国寸評 (American Commentary) 」内で、演説のプレス・リリースを代読して放送した。 ⇒「BBC特派員レナード・マイオールへのインタビュー」 Archived 2007年8月3日, at the Wayback Machine.(マーシャル財団ホームページ内。聞き手:バーバラ・ヴァンデグリフト)。 ⇒Memorandum by Mr. Charles P. Kindleberger, FRUS 1947, Vol. III, pp. 246-247. Acheson, Present at the Creation, p. 234. (邦訳:287頁)
^ ジェファーソン・キャフェリー駐フランス大使は会談の前日にマーシャルに宛てて電報を送信した。それによると、ビドーはベヴィンの訪仏について、ショーで良い役を取ろうとするベヴィンの欲求の表れと解釈されるため好ましくないとキャフェリーに語った。しかし、そう語るビドー自身が良い役を取ろうとしているようであったという。 ⇒The Ambassador in France (Caffery) to the Secretary of State, FRUS 1947, Vol. III, pp. 255-256.
^ 国際連合安全保障理事会での討議の際、ソビエト連邦は度々拒否権を発動して議論を停滞させた。
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