マーシャル・プラン
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覚書は緊急の検討を要したが、国務長官宛の正式文書を他の者が受け取ることは出来ないため、応急処置として覚書の写しを国務省近東・アフリカ局長ロイ・ウェズリー・ヘンダーソンに手渡し、正本は後日マーシャルに渡すことにした[1]

サイチェルは覚書を2通携えていた。1通目はギリシャに関するもので、イギリスが3月31日を限りにギリシャに対する援助を打ち切らざるを得ないとして、年間6000万から7000万ポンド[注釈 2]の肩代わりをアメリカに求めた。もう1通はトルコに関するもので、軍の近代化と経済発展の両立が困難であること、トルコの戦略的・軍事的位置について英米連合参謀本部で協議する用意があることや、トルコ軍拡充の為の財政援助をアメリカが行うよう期待することが記されていた[2]
ギリシャ・トルコ情勢

大戦後のギリシャ・トルコ両国は、以下のような情勢下にあった。

ギリシャでは第二次世界大戦中、共産党系の民族解放戦線(Ethnikon Apelefyherotikon Metpon, EAM)とその軍事組織であるギリシャ人民解放軍(Elinikos Laikos Apeleftherotikos Stratos, ELAS)が枢軸国に対するレジスタンス運動を展開していたが、1944年のドイツ軍撤退後にカイロパパンドレウ亡命政府が首都のアテネ入りを果たすと、同政府の中心である右派・王党派勢力とEAMとの間で衝突が起こった(ギリシャ内戦)。

イギリスは王党派を援助してきたが、これに対して内外から批判が挙がった。加えて1946年から翌年にかけての冬は実に66年ぶりの厳冬となったため、国内では深刻な燃料危機が発生した。イギリスは大戦で経済が疲弊した上、巨額の対アメリカ借款を抱えており、援助政策の再考を迫られていた。

経済情勢も深刻で、工業生産は戦前の40パーセント程度に留まっていた。1946年末にアメリカを訪問したギリシャのツァルダリス首相はギリシャ経済の窮状を説明し、今後5年間に12億4600万ドルの援助が必要であると訴えた。

一方トルコでは、ボスポラスダーダネルス両海峡の管理を巡る問題が発生した。両海峡は1936年11月以来モントルー条約に則って管理されてきたが、1946年中に改訂することがポツダム会談で合意されていた。これを受けて1946年8月7日にソ連はトルコに覚書を送付し、黒海沿岸諸国の軍艦の自由航行やソ連の軍事基地建設を前提とするソ連・トルコの海峡共同防衛などを提案した。トルコはこれに反発し、アメリカ合衆国・イギリスもトルコに同調した。
援助決定

1947年2月24日(月曜日)の早朝に覚書は正式にマーシャルに手渡された。同日に国務省内にはヘンダーソンを長とする「ギリシャ・トルコ援助検討特別委員会」が設置され、「長文電報」でソ連通としての知名度を高めていたジョージ・F・ケナンもこれに参加した[注釈 3]。特別委員会は翌25日に「対ギリシャ・トルコ緊急援助に関する国務省の立場と勧告」をアチソンに提出した。報告書は安易にソ連との妥協を行わないとの言質をイギリスから取ることを条件に、援助肩代わりの要請を受け入れることを勧告した。

さらに2月26日、国務省・陸軍省海軍省の3省長官会議が開催された。陸軍長官ロバート・ポーター・パターソン海軍長官ジェームズ・フォレスタルは、同様の事態は南朝鮮中国など他の諸地域でも発生しているためにこれらの地域への援助も必要であると考えた。しかし議会で多数を占める共和党が財政支出の削減を強く求めていることに配慮し、対象をギリシャ・トルコに限定した国務省の勧告に基本的に賛同した。会議後にマーシャルはギリシャ・トルコ援助案を大統領ハリー・S・トルーマンに伝達し、了承を得た。トルーマンはアーサー・ヴァンデンバーグ[注釈 4]ら有力議員8名を招き、対ギリシャ・トルコ援助への協力を事前に取り付けた。
トルーマン・ドクトリン

同年3月12日、上下両院合同会議の場においてトルーマンは特別教書を発表した。いわゆる「トルーマン・ドクトリン」である。トルーマンは、イギリスが対ギリシャ・トルコ援助の打ち切りを通告したことに触れ、ギリシャおよびトルコの現状について説き起こした。

この教書の中でトルーマンは、世界のほぼ全ての国々が否応なく「2つの生活様式」即ち自由主義全体主義の選択を迫られているという二元論的な外交理念を提示すると同時に、「武装した少数者や外部からの圧力による征服の試みに抵抗している自由な諸国民を支持することこそ合衆国の政策でなければならないと信じる」と語った。そして、ギリシャやトルコが全体主義者の手に落ちればその影響は両国のみに留まらないと主張し、両国に対する経済的・軍事的援助として、1948年6月末までに4億ドルの支出と民間人・軍人の派遣を認めるよう議会に要請した。

4億ドルという額についてトルーマンは、アメリカが大戦中に支出した戦費(3410億ドル)の0.1パーセント強に過ぎないと語り、負担に充分耐え得ることを強調した。そして、自由主義世界を全体主義体制から守る責務を全うできる国家は今やアメリカをおいて他にないとして、上記の提案に賛同することを議会に求めたのである。

この演説は名指しこそ避けたものの、ソ連の影響力が地中海沿岸地域にまで及ぶことを警戒する内容となっていた。ギリシャ・トルコ危機という地域問題はこの演説によって世界規模の問題として捉えられ、その背後にはアメリカとソ連の対立という図式が潜んでいるとする認識が同時に示されたのである[注釈 5]

この演説は広汎な支持の獲得に成功したという。しかし国務省からは演説内容に対する驚きの声が上がった。反共的な主張の並んだ草稿に驚いたマーシャルは、事態を過大に言い過ぎているとの電報をトルーマンに宛てて送信した[6]。また、ケナンは草稿を読んで「これはまずいな」と懸念した。ケナンはギリシャへの経済・技術援助には賛同しつつも、軍事援助には消極的であった。また、局地的問題を普遍化するかのような言辞にも反対した[7]
モスクワ外相会談4か国分割占領下のドイツ。1947年時点では、このうちイギリスとアメリカの占領区域が経済統合を実現していた

この頃、モスクワではアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト連邦の4か国の外相による会談が進行中であった。

枢軸国のうち、イタリアハンガリーブルガリアなどとの講和は1946年11月のニューヨーク外相会談で決着し、翌年初頭に講和条約調印を実現した。残るドイツオーストリアとの講和問題を議題として開催されたのが、モスクワ外相会談である。4か国は1947年3月10日から4月24日まで45日間にわたって議論を交わしたが、各国の利害が鋭く対立し、とりわけドイツの処理問題は困難を極めた。主な争点は以下の諸点である。

ドイツ臨時政府の政治体制について。アメリカとイギリスは連邦制を採るべきであると主張したが、ソ連は中央集権制を主張した。フランスはドイツの復活が自国の安全保障に及ぼす影響を懸念し、臨時政府の早期樹立自体に難色を示した。

ドイツの経済復興について。ソ連は200億ドル(うち対ソ連分として100億ドル)相当の経常生産物賠償[注釈 6]をドイツに要求する賠償20年案を提示するとともに、先に米英両国が取り交わした両国占領区域間の経済統合協定の撤廃およびルール地域の4か国共同管理を主張した。対してアメリカとイギリスは、ドイツの賠償支払能力は10年間に30億ドル程度であるとして、賠償請求よりも経済力の回復を図るためにポツダム協定によって制限されている工業水準の引き上げおよび各占領区域の経済統合を求めた。一方、ドイツが持つ資源を極力自国のために利用したいフランスは、ドイツの石炭をフランスへ優先的に供給するよう主張した[注釈 7]

対オーストリア講和問題も、一定の前進こそあったものの結論は先送りされた。こうして会談は見るべき成果の無いまま、議題を次回に持ち越して閉幕した。会談に出席したマーシャルは、ドイツ処理問題におけるソ連の強硬姿勢の背後には「問題の長期化はヨーロッパ経済に悪影響を及ぼす。それはソ連にとって有利に働く」との意図があるとみた。その確信は、国務長官特別補佐官チャールズ・ボーレンを伴ってヨシフ・スターリンを表敬訪問した際、いよいよ強固なものとなった。ドイツ問題の早期解決を訴えるマーシャルに対し、スターリンは無関心であるかのような回答を返した。


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