マーシャル・プラン
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ソ連は200億ドル(うち対ソ連分として100億ドル)相当の経常生産物賠償[注釈 6]をドイツに要求する賠償20年案を提示するとともに、先に米英両国が取り交わした両国占領区域間の経済統合協定の撤廃およびルール地域の4か国共同管理を主張した。対してアメリカとイギリスは、ドイツの賠償支払能力は10年間に30億ドル程度であるとして、賠償請求よりも経済力の回復を図るためにポツダム協定によって制限されている工業水準の引き上げおよび各占領区域の経済統合を求めた。一方、ドイツが持つ資源を極力自国のために利用したいフランスは、ドイツの石炭をフランスへ優先的に供給するよう主張した[注釈 7]

対オーストリア講和問題も、一定の前進こそあったものの結論は先送りされた。こうして会談は見るべき成果の無いまま、議題を次回に持ち越して閉幕した。会談に出席したマーシャルは、ドイツ処理問題におけるソ連の強硬姿勢の背後には「問題の長期化はヨーロッパ経済に悪影響を及ぼす。それはソ連にとって有利に働く」との意図があるとみた。その確信は、国務長官特別補佐官チャールズ・ボーレンを伴ってヨシフ・スターリンを表敬訪問した際、いよいよ強固なものとなった。ドイツ問題の早期解決を訴えるマーシャルに対し、スターリンは無関心であるかのような回答を返した。曰く「我々は、次回には合意に至るであろう。その時でなければその次には」[10]。モスクワからの帰途、マーシャルはボーレンに対して西ヨーロッパの完全崩壊を防止する手立てを考えねばならないと語った。

1944年9月に当時の財務長官ヘンリー・モーゲンソーが主唱したモーゲンソー・プランは、ドイツの軍需産業を徹底破壊して同国を農業国化するという懲罰的なドイツ政策を志向したが、この案は国務省・陸軍省・イギリスの猛反対を受けて影響力を失った。2年後の1946年9月に当時の国務長官ジェームズ・バーンズシュトゥットガルトで行った演説「ドイツ政策の見直し」では、ドイツはヨーロッパの一部であって、ドイツの復興はヨーロッパ復興の一部をなすものであるとの認識の下、ドイツの経済的自立の重要性が謳われた[注釈 8]。1947年3月18日にはフーヴァー使節団が、ドイツの工業力を基礎とした西ヨーロッパ復興を大統領に勧告する報告書を提出した[11]。在独合衆国軍政当局(Office of Military Government for Germany, United States, OMGUS)も占領経費削減という見地からドイツ復興を推進した[12]。議会もこうした路線に賛意を示していた。しかし「強いドイツ」の復活にはフランスの反発が大いに予想された。この難題を乗り切るため、ヨーロッパの共同復興という案が浮上したのである。
大戦の影響空襲で壊滅したハンブルク市街。同市はのちに「ドイツのヒロシマ(Hiroshima of Germany)」と呼ばれた

トルーマン演説以来、議員たちの間から400を超える質問が噴出した。これに答えるため国務省は、「ギリシャ・トルコ援助法案に関する質問と回答」と題する文書を作成し、議会に提出した。同文書はギリシャ・トルコ援助に類する援助を他の地域にまで拡大する予定は現時点では無いと回答していた[13]。だがそれは、援助支出の増大を渋る議員らに対する便法に過ぎなかった。実際には、演説が行われた時点で既に、緊急の援助を必要とする国々を洗い出す作業は始められていたのである。

6年間に及んだ大戦はヨーロッパ全体に深刻な影響を及ぼしていた。1946年時点の鉱工業生産はイギリスが大戦前(1937年)の90パーセント、フランスが同じく73パーセントに留まり、敗戦国のドイツ(ソ連占領区域を除く)に至っては戦前の3分の1にまで落ち込んでいた[14]。ヨーロッパ全体を見ると、1947年時点の農業生産は1938年水準の83パーセント、工業生産は88パーセントであり、輸出はわずか59パーセントに過ぎなかった[15]

1941年3月、アメリカは武器貸与法を成立させ、大規模対外援助への道を開いた。戦災地域の救済のため1943年11月に設立された連合国救済復興機関 (UNRRA) に対しては、アメリカは活動資金(約36億6000万ドル)の大半を拠出し、大戦終結後は英米金融協定に基づき37億5000万ドルをイギリスに貸し付けた。これらは暫定的な援助としてなされたものであり、国際通貨基金 (IMF) や国際復興開発銀行 (IBRD) を中心としたブレトン・ウッズ体制へ早期に移行できると期待されていた。しかし、これらの援助だけではヨーロッパ復興は覚束無いとする悲観的認識が次第に広がった。
源流

戦後のヨーロッパの枠組みやヨーロッパ復興の道筋に関しては、先に述べたバーンズのシュトゥットガルト演説を始めとする、多くの青写真が提示されてきた。そして、対ギリシャ・トルコ援助打ち切りの通告からマーシャルによるハーヴァード演説までの15週間に、アメリカ政府では対外援助のあり方について様々な検討がなされた[注釈 9]。その結果マーシャル・プランの基本理念の形成に貢献する、いくつかの案が示されたのである。
3省調整特別委員会の報告

3月5日、国務次官アチソンはパターソンとフォレスタルに対し、国・陸・海3省調整委員会(State-War-Navy Coordinating Committee, SWNCC:国家安全保障会議の前身で、1944年に設置された。3省の次官補級官僚を構成員とする)を通じて、緊急の援助を必要とする国の選定を行うよう提案した。これを受けてトルーマン・ドクトリン発表の前日に当たる同月11日に第55回3省調整委員会が開催された。同委員会は対ギリシャ・トルコ援助の実施計画の検討を開始すると共に、委員会内に特別委員会を設置することを決定した。国務省内にはウィリアム・エディ(William Alfred Eddy)国務長官特別補佐官を委員長として、外国政府援助拡充委員会(Committee on Extension of United States Aid to Foreign Governments)が設置された。

4月21日、3省調整特別委員会は「合衆国による対外援助の政策・手続き・費用」と題する中間報告を提出した[16]


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