マーシア
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マーシアの地理的条件を望見すると、北にノーサンブリア王国、南にウェセックス王国、西にウェールズのケルト諸国といった難敵に囲まれた地域であり、マーシア王国自体の版図はさほど大きくない。むしろ7世紀以降、上位支配権を得た小王国によってマーシア王国の支配地域は成り立っており、したがってマーシア王国本体が弱体化すればこれら小王国は旗色を変えて他の強国につくこともあった。こうした小王国の奪い合い、さらには強国どうしの上位支配権争いが常態化していた。ほとんどの王国を上位支配権によって臣従させた王は、のちにブレトワルダとよばれ、マーシアから2人を輩出した。
キリスト教の再布教

七王国時代は、イングランドにキリスト教が復興した時代でもあった。ローマ帝国の衰退によって、ブリテン諸島はいったんはキリスト教の圏外となった。流入してきたアングロサクソン諸部族は当初ゲルマン神話に基づく信仰を有しており、キリスト教世界からみればイングランドは蛮族の地となっていた。スタフォードシャーのウェンズベリ(Wednesbury)は主神ウォウドゥン(Woden)(北欧神話のオーディン(Odin)に相当)の名に因むほか、英語の曜日名にもゲルマン神話の残滓が見られる。諸々の王国は次第にキリスト教に改宗していったが、マーシア王国は比較的遅くまでキリスト教に改宗しなかった。
盛衰の過程ベーオウルフの残存している部分。ゲルマン最古の叙事詩のひとつで、古代イングランド文学の最高峰ともいわれる
マーシアの成立

マーシアはユトランド半島南東部のアンゲルン半島(現ドイツ領)から渡ってきたアングル人で、そのなかでも最も西に進出し、ブリトン人支配地域に近かったため古英語の Merce(辺境人、もしくは進軍する人々)からマーシアと呼ばれるようになった。しかしその出自については、他の七王国にもまして不明な点が多い。これはマーシアが文字記録を残すことに熱心でなかったこと、文化面で後進国であったことが影響しているが、考古学による発掘調査などから、6世紀にはテムズ川北岸に勢力を持っていたと推定されている。マーシアの名は現在も、イギリス陸軍戦列歩兵メルシャン連隊コヴェントリーFMラジオ放送局「Mercia FM」などに残っている。

マーシアの初期の変遷については、残存する記録の少なさとその史料的信頼性の低さがあいまって定説をみない。名前の由来が国境の人々という意味である事から、この国の起源は古来の民であったブリトン人と新参者であったアングロサクソン人の緩衝地帯であった事が窺える。もっとも、この説には異論があり(ハンター・ブレアなど)、この『国境』という意味は隣国ノーサンブリア王国およびトレント川に住む原住民との事を指しているという説もある。

そして伝説などからマーシアの起源をたどれば、『ベーオウルフ』の登場人物オルゲンシーオ[注釈 1](? - 515頃)に辿り着く。アングロサクソン年代記などによれば、エオメル[注釈 2]の子イチェル(? - 501頃)がアングル人の一派を率いて海に渡ってきたのは5世紀末のことで、マーシア王国の最初の王はイチェルの曾孫のクレオダ540頃? - 593)とされる。クレオダはタムワース (Tamworth) に城砦を築き、王城とした。そして王位はピュバに継がれたと言う。しかしこれら初期の王たちはいずれも半伝説的存在にとどまり、実在が間違いないと考えられているのは次の王位を継いだ、クレオダの親族とされるチェオルル606頃 - 626)からである。マーシア王ペンダを描いた、ウースター聖堂のステンドグラス
ノーサンブリアとの覇権争い

7世紀初頭はノーサンブリア王国が北のピクト人やスコット人、ウェールズのブリトン人などを圧迫して勢力を広げ、ブレトワルダの称号を得ていた。この時期の史料として歴史家ベーダが残したものが知られているが、ベーダ自身はノーサンブリア出身であり、マーシア王国とその王に関する記述は公平を欠くものと受け止められている。ベーダがマーシア王国をきらったのにはキリスト教に改宗していないという宗教的事情もあったが、それでもマーシア王国について書かなければならないほど力をつけてきていた。ペンダ (? - 655?)王の頃にはイングランド中部の覇権をかけてノーサンブリア王国としばしば争い、ハットフィールド・チェースの戦い (633) 、マスターフィールドの戦い (642) に勝利してマーシアは強国にのし上がった。この勢いでブレトワルダの地位を手中に収めるかに見えた矢先、655年ウィンウェッドで決定的敗北を喫し、マーシア王ペンダが討ち死にしたばかりでなく、ノーサンブリアの傘下におさまることになった。
ウルフヘレによる再興

その後マーシア王国を立て直したのがウルフヘレ (? - 675)である。ノーサンブリア王国の従属国状態から脱し、ケント王国ワイト島など南部・南西部をその支配下におき、さらにキリスト教に改宗した。当時キリスト教に改宗することは、ヨーロッパから独立した島国ではなくキリスト教世界に組み込まれることを意味していた[注釈 3]。マーシアは着々と勢力を広げつつあったものの、このときの支配領域はイングランド南半分に限られ、また西のウェセックス王国の勃興にも手を焼き、イングランド全土にその支配を広げるのは8世紀も後半になってからのことである。
ブレトワルダ時代オッファの防塁(英語版)。フランクシャルルマーニュも同様の城壁を築くことを計画したが実行できなかった。またイングランドとウェールズの国境線をほぼ画定した

マーシアは8世紀後半にふたりのブレトワルダを輩出した[注釈 4]。すなわちエゼルバルド (在位:716 - 757) とオッファ (在位:757 - 796) である。エゼルバルドは教会への課税を強化して国力を蓄え、西の難敵ウェセックス王国を屈服させた。こうしたエゼルバルドの積極政策は内外に敵を多く抱えることになり、エゼルバルドは自らの護衛によって暗殺された[注釈 5]。つづくオッファの時代が、マーシア王国の絶頂期であった。永年の宿敵ノーサンブリア王国を屈服させて上位支配権を獲得したのみならず、支配下におさめていた小王国を解体させ、オッファの親族や腹心を統治者として送り込んだ。

オッファの防塁(英語版)はハドリアヌスの長城にも劣らぬオッファの歴史的偉業とされる。攻めてくるブリトン人を防ぐためのものか、切り取った地域を守るためのものか、その建設意図は明らかでない。この防塁に関して分かっていることは、すでにあった「ウォットの防塁」を延伸するかたちでイングランドとウェールズの間に築かれた。さらにフランク王国とも対等な外交を展開し、このように力を示したオッファはレクス・アングロルム (Rex Anglorum) 、すなわち全アングル人の王と自ら名乗った。
衰退の時代「デーンロウ」も参照

オッファは死に際して後継者をエグフリスにさだめ、臣下たちから忠誠をとりつけたが、肝心の後継者エグフリスがオッファの死後141日で没してしまい、ウェセックス王国などいくつかの諸王がマーシア王国から独立した。混乱の極にあったマーシア王国をコエンウルフ(チェンウルフ)がまとめ、独立した諸国をただちに平定した。しかしウェセックス王国はマーシア王国に勝利して独立を確固たるものにし、さらに教会への課税を強制するほどの力はなくなっていた。折しもヴァイキングがブリテン島東岸に出没しはじめ、各港が襲われてきていた頃であった。

マーシア王国は没落への道を一直線かつ急速にたどったわけでは必ずしもないが、南西の強国ウェセックス王国はヴァイキングによる被害がほとんどなく、9世紀に入るとウェセックス王国の力に対抗しえなくなってきていた。幾度か独立を回復したこともあったが、基本的にはウェセックスの上位支配権をあおぐ形となった。825年のエランダンの戦い(英語版)でマーシアはエグバートの率いるウェセックス王国に敗北し、イングランドは統一された。

868年デーン人のブルグレッドがマーシア王位についたが、これが最後のマーシア王となった。ブルグレッドは874年追放され[4]、マーシア王国はデーン人とウェセックス王アルフレッドによって分割、歴史の表舞台から姿を消した。9世紀初頭のイングランド勢力図
マーシアの残した影響

マーシアはアングロサクソンの社会を色濃く残し、比較的ローマやキリスト教の影響の埒外にあった。いうなれば「野蛮な」勢力のひとつで、その性格は北に隣接する大国ノーサンブリアが早くからキリスト教に改宗して華やかな文化を築いたことと対照的だった。ロンドンを勢力下に収めてからは商業に力を入れ、王の肖像と名を刻印した貨幣を多く鋳造した。マーシアとその覇権は、イングランドに以下のような社会の変化をもたらした。

七王国時代のブリテン島は大小無数の王国が林立し、戦士団の首長として王が君臨していた。王は自らの威光を保つために戦って勝利しつづけなければならず、敗北と死は同義であるのみならず、安定的な王位継承制度など望むべくもなかった。


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