マーケット・ガーデン作戦
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連合軍が、ミューズ川ライン川ネーデルライン川及びそれらの川の運河に架かる橋に空挺部隊を降下させて確保させ、ドイツ本土進攻の進撃路にするといった、冒険的な作戦であった[11]。作戦を企画したイギリス陸軍バーナード・モントゴメリー元帥によればこの作戦は、部隊と戦車が疾風のようにオランダを席巻してドイツ本土になだれ込み、ナチス・ドイツを打倒して1944年中に戦争を終わらせるものであった[12]

連合軍の空挺部隊は様々なトラブルに見舞われながらも、途中までは目標の橋を確保したが、その空挺部隊が敷いた“絨毯”を進撃したイギリス軍機甲部隊が[13]、要所要所でドイツ軍の激しい抵抗にあって進撃が停滞した[14]。敵中最も深い攻略目標であったアーネム(アルンヘム)に降下したロイ・アーカート(英語版)少将率いるイギリス第1空挺師団(英語版)は、ドイツ軍精鋭部隊第9SS装甲師団第10SS装甲師団などの目と鼻の先に降下することとなったため、激しい反撃を受けて大損害を被り[15]、イギリス機甲部隊の到達まで持ちこたえることができずに、9月26日に撤退して作戦は失敗に終わった[16]

作戦の失敗により、モントゴメリーの目論見通りのドイツ本土への疾風のような進攻は見送られ、結局、ドイツ本土への進攻はこの6か月後となってしまった。作戦目的を達することができなかったうえ、多大な損害を被った連合軍であったが、オランダの国土の大部分を解放し、ナチス・ドイツの圧政と搾取で飢餓で苦しんでいたオランダ国民を救うこととなった[17]
背景マーケット・ガーデン作戦時の北西ヨーロッパ連合軍司令官たち。前列左がオマール・ブラッドレー、右がバーナード・モントゴメリー、後列中央がドワイト・アイゼンハワー

ノルマンディー上陸作戦後の1944年8月、ファレーズ・ポケットなどでドイツ軍に大打撃を与えた連合軍は、それまでの停滞した戦線と異なり急速な進撃を開始した。8月25日にはパリを奪還、9月4日にはイギリス第21軍集団揮下のカナダ第1軍がベルギーアントウェルペン(アントワープ)を奪還していた。

しかし、この進撃速度は計画を大幅に上回るものであった。当時の連合軍の補給物資はコタンタン半島の先端の港湾シェルブールかノルマンディーの上陸地点を経由しており、イギリス海峡に面した他の重要な港湾は、たとえば1945年5月の降伏までドイツ軍が保持していたダンケルクのように、撤退が間に合わず取り残されたドイツ軍が占拠しているか、あるいは撤退するドイツ軍によりクレーンデリックなどの港湾施設が破壊され荷揚作業ができない状態にあった。連合軍の各部隊はその補給路の長さから来る燃料・物資の不足に悩まされることとなり、9月初旬には進撃が停滞した。

このためイギリス海峡に面した港湾を確保し、新しい補給路を構築することが早期進撃再開のために必要と考えられた。アントウェルペンは世界有数の良港であり、クレーンなどの港湾設備が残存していたため、連合軍にとってイギリス海峡に面した新たな補給拠点になる重要な候補であった。しかし港湾設備の大半はスヘルデ川を遡上した内陸にあり、また内水への航路上にはまだ機雷が敷設されていたため掃海の必要があった。唯一利用可能な河口域(オランダ領)の施設はドイツ軍が排除されておらず、港湾としての機能が果たせない状態にあった。河口域南岸のドイツ軍残存部隊に対してはカナダ第1軍が掃討作戦を展開中であったが、北岸のドイツ軍は手付かずの状況にあり、この地域のドイツ軍を残存させることはアントウェルペン港完全解放、ひいては連合軍全体の補給の障害となっていた。

しかし、アントウェルペンが属する連合軍戦線北部を担当する第21軍集団(英語版)司令官バーナード・モントゴメリー元帥は、連合軍にとって重要なアントウェルペンの安全確保よりは、戦争を早期に終わらせるために、連合軍の戦力を北部方面に集中させ、海岸線を掃討してベルギーに強力な航空兵力を配備して、一気にラインの下流域でドイツ国境を突破し、ルール工業地帯に進攻するという壮大な構想を描いていた[18]。しかし、SHAEF司令官ドワイト・アイゼンハワー元帥の方針は、圧倒的な連合軍の戦力でもって戦線全域でひたひたとライン川一帯まで進出させ[19]、そのままドイツ領内に入るという“広域進撃戦略”であった[20]

モントゴメリーは自分の作戦方針を認めさせることと、その作戦の責任者を第12軍集団(英語版)司令官オマール・ブラッドレー中将ではなく自分へ任じること求めるために、参謀長のフレディ・ド・ギャンガン(英語版)准将を使いとしてアイゼンハワーと面談させたが、アイゼンハワーは否定的であった[21]。アイゼンハワーは連合軍の既定路線を変更する気は全くなかったが、モントゴメリーは実戦の指揮経験に乏しいアイゼンハワーを見下しており[22]、この後も執拗に自分の作戦方針を採用するようにアイゼンハワーに迫り、自らもブラッドレーと面会して自分の作戦方針を熱く説き続けた[23]

その後の1944年8月23日に、ついにアイゼンハワーに直談判する機会に恵まれたモントゴメリーは、お互いの幕僚を外させると2人きりで約1時間話し合った。冒頭でモントゴメリーはアイゼンハワーの方針である広域進撃戦略の問題点を下記のように指摘した[24]


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