マーガレット・サンガー
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プライバシー権を認めた判決)の歴史的な判決が出た直後であった。この判決で、アメリカにおいては夫婦の間の産児制限が合法化されることとなり、まさに50年に及ぶの闘いの頂点となったのである。サンガーの死後、プランド・ペアレントフッドの会長は産婦人科医のアラン・ガットマッハーに引き継がれた。
日本での活動来日時のマーガレットと息子のグラント(横浜港・1922年)。1937年にも再来日し、戦後も日本の産児制限のため5度来日した[12]訪日時のマーガレットと石本男爵夫人・静枝(右端は彼女の次男)

日本の産児制限運動は、戦前戦後ともサンガーの思想に強く影響を受けていた。1920年1月17日、ニューヨークの自宅でマーガレットと出会った男爵夫人石本静枝は、彼女に啓発され日本に招待する。のちに彼女はシヅエのことを「魂の友(ソールメイト、soul mate)」と称している。2年後の1922年(大正11年)、改造社社長の山本実彦らにより正式に招待され初来日、日本における全国的な家族計画運動の端緒となった[13]。サンガーの来日には政府はじめ東京女医学校校長・吉岡弥生らの猛反対もあった。日本渡航の船上では、加藤友三郎男爵、埴原正直外務次官らと談話し、また日本の乗客らがマーガレットの特待室を訪れて産児制限の話を聞いていた[14]。来航後、官憲により一度入国拒否されるが、内務省は日本帝国の領土内でマーガレットが産児制限の講演をすることを禁じ、彼女がもってきた宣伝用パンフレットを、横浜埠頭で押収した。一行と共に加藤時次郎が院長を務める平民病院を視察後、華族会館を訪れ川村鉄太郎伯爵、寺島誠一郎伯爵、佐野常羽伯爵、西尾忠方子爵、神田乃武男爵、佐佐木行忠侯爵、蜂須賀正韶侯爵、石本男爵夫妻と懇談し全者と産児制限運動に関して合意を得た[15][16]

京都市医師会主催の専門家を対象とする特別講演だけは、当局の許可するところとなり、山本宣治議員はその通訳をつとめた[17][18]。全国に妊娠調節相談所(後に受胎調節相談所) 、産児調節研究会が発足し「避妊」の大規模な宣伝となった。同年5月、石本恵吉男爵、安部磯雄、加藤時次郎、 松岡駒吉、岡野辰之助らが日本産児調節研究会を設立。

また1936年1月に再来日[19]、1937年8月には、アメリカから中華民国へ向かう途中、日本に立ち寄り、東京で日本産児調節婦人同盟の主催する歓迎会に出席するなどした[20]

終戦後、当時のダグラス・マッカーサーGHQにより一度来日及び滞在ビザが断られるも、当時の米大統領夫人エレノア・ルーズベルトの尽力などにより来日が許可され、1952年(昭和27年)10月30日に毎日新聞社の招きにより正式に再来日[21][22]。ラジオ対談、座談会、公衆衛生院視察、講演会などの行事をこなし、11月2日に東京都北多摩郡狛江村(現:狛江市)を視察した。「産児調節のモデル村」として知られている同村視察、指導員が模型を使ってペッサリーの使用法を教える実況を視察し、賞賛の言葉を述べて激励したと伝えられる[23][24]。この時、政府に避妊具デュレックスを寄贈する。

1954年(昭和29年)4月13日に来日し(当時72歳)、東京と京都の各地で婦人団体、説明会にのぞむ。草葉隆圓第5次吉田内閣自由党厚生大臣を訪問し日本の家族計画運動について懇談した際、妊娠中絶件数が多いことを嘆き家族計画政策の活発な展開を要請した。次いでアメリカで開発中の避妊ピルの話をし、「日本でも早速その薬品見本を輸入されては如何ですか」と提案。草葉大臣は「それでは、中央優生保護委員会の分科会が試験に参加することにしましょう。」と約束した。これにより日本人が初めて経口避妊薬の存在を知ることになり[25]、同年10月5日、厚生省の会議で日本政府が産児制限を人口抑制策として推進する方針を明確に打ち出した[26]。政府は参議院厚生委員会に参考人として招聘し、家族計画・産児制限、またその米国事情について意見を仰いだ[27]。この時日本の国会で発言した初の外国人となり、サンガーは前年成立した優生保護法について「非常に立派で理路整然」と述べている。この時サンガーの指導により正式に日本家族計画連盟が発足した[28]

1955年10月24日、東京都で開催された国際家族計画連盟第5回会議に参加、グレゴリー・ピンカス教授が開発した経口避妊薬について紹介する[29][30]。この時川崎秀二厚生大臣から感謝状を授与され、また高松宮高松宮妃に謁見した[31]

1959年6月11日の来日の際には、鳩山薫らとの対談の後首相官邸を訪問し岸信介総理大臣と産児制限について対談した。前年の第一次ベビーブーム後の出生率急落について「これほど短期間に劇的に出生率が低下した国は世界にない」と感激すると共に、依然として避妊をする親が少なく中絶に頼っていることを危惧し、中絶は母体に危険があり健康を損なうとして首相と合意を得た[32]

1965年、死の前年に政府から勲三等宝冠章を叙勲された。マーガレット推奨の産児制限運動により、日本社会が静謐になったことへの栄誉であった。

1953年一年後の再来日を前に遺言のようなメモを残していた[33]

「私が死んだ場合、2週間以内に火葬されたいです。今回日本に行くのは東京に埋葬されるため ? 遺骨のままか遺灰にするか、政府、厚生大臣もしくは加藤シヅエ議員が指定する場所で - これは日本国民と日本政府への感謝です - 世界で唯一、私と産児制限活動を正式に認めた国 ? 天皇にも献上されて
(In case of my death ? I want to be cremated not before two weeks later ? The heart to go to Japan to be buried in Tokyo ? any place the Govt or Health and Welfare Minister, together with Senator Shidzue Kato wish to have it buried, as it is or in ashes ? This is gratitude to the Japanese people & Govt ? The only country in the world who have officially recognized me & the BC work ? also presented to the Emperor)」

?Burial Instructions(1953?)
MSM S83:889-890

思想

サンガーは自由な思想を持っていた無神論者の父親の影響を強く受けているが、女性の健康や出産への自分自身を含めた社会の無理解に深く失望したのは母親の死がきっかけであった。サンガーはまた、一般社会及び宗教上の権威者が女性を男性の下に置き続けようとして、自らの発した性及び避妊に関するメッセージを検閲することも批判した。サンガーの主な政敵はカトリック教会であったが、彼女は無神論者としてキリスト教信仰を、反啓蒙主義的であり非科学的であり、女性問題について理解がなさすぎる上社会福祉に反する、として攻撃した。女性の間で性病の危険性への認識が低く、治療機会も少ないことについて特に厳しく批判した。サンガーによると、これらの社会悪は体制側の男性の中に本能的に存在する女性を無視し続ける態度に因って来るものであるとし、また現代社会が性病患者の登録管理を行っていないことにも痛罵を浴びせた[注釈 2]


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