マーガレット・サッチャー
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ERMは為替レートの安定どころか不安定化の要素だとし、ERMに加入すべきではないとウォルターズは考えていた[20]

しかしナイジェル・ローソン財務大臣とその後任のジョン・メージャーらの働きかけに押され、イギリスをERMに加入させたことも事実である。ローソンは1987年頃から為替レートの安定化政策を主張し始めたが、一方で1988年にサッチャーとローソンの関係は悪くなっていた。1980年代後半からの拡張型金融政策によってイギリス経済が成長していた状況下、インフレ抑制を好むサッチャーと安定な為替レートを好むローソンの対立が次第に顕在化し始めた。それでもEMUに対するサッチャーとローソンの見解は一致していた。両者ともにEMUには反対していた。その年の中頃にジェフリー・ハウが閣内不一致となるスピーチをするようになった。ハウはERMに関してローソンとほぼ同じ意見であった。

1989年にレオン・ブリタンがERM加入のメリットをサッチャーに力説した。イギリスがERMに加入することでERMの発展をイギリス主導で行えるとブリタンは主張した。その年の5月にはウォルターズが公式にサッチャーの助言役として復帰し、これによってサッチャーとローソンとの間の確執は決定的になった。ローソンはドイツマルクとの為替レートを見ながらイングランド銀行の利上げを主張し、一方のウォルターズは景気を悪化させるとして利上げには反対だった[20]。サッチャーは内閣改造により、ハウを下院院内総務にしてローソンを留任させた。しかし結局ローソンは辞任し、ウォルターズも辞任することになる。サッチャーは後任の人事にジョン・メージャーを任命した。いつかはメージャーが自身の後任を務めるだろうとサッチャーは考えていたため、メージャーに経験を積ませたいとの目的で財務大臣にした。

しかしメージャーはERM参加に熱心になり始めた。1990年にERM参加のメリットは為替レートの安定だけでなく、金利を下げることでもあるとメージャーは主張した。さらには、ローソンらとの対立で顕在化した保守党内の内部抗争についてERM参加によって保守党が団結でき、それが経済にもよい影響を与え、次回の総選挙に勝てるのだともメージャーは主張した[20]。最終的にサッチャーはメージャーらに譲歩して変動幅±6.0(%)でのERM参加を検討し、その年にイギリスはERMに加入した。
フォークランド紛争ウィリアムズバーグ・サミット(1983年5月29日)ヒューストン・サミット(1990年7月9日)

1982年3月、南大西洋のフォークランド諸島フォークランド紛争が勃発する。アルゼンチン軍のフォークランド諸島への侵略に対し、サッチャーは間髪を入れず艦隊・爆撃機をフォークランドへ派遣し、多数の艦艇を失ったものの、アメリカの協力を受けた2か月の戦闘の結果、6月14日にイギリス軍ポート・スタンリーを陥落させ、アルゼンチン軍を放逐した。サッチャーの強硬な姿勢によるフォークランド奪還は、イギリス国民からの評価が高い。

この際、「人命に代えてでも我がイギリス領土を守らなければならない。何故ならば国際法が力の行使に打ち勝たねばならないからである[注 7]。」と述べた。

イギリス経済の低迷から支持率の低下に悩まされていたサッチャーは、戦争終結後に「我々は決して後戻りしないのです」と力強く宣言し、支持率は73パーセントを記録する。フォークランド紛争をきっかけに保守党はサッチャー政権発足後2度目の総選挙で勝利し、これをきっかけにサッチャーはより保守的かつ急進的な経済改革の断行に向かう。
香港譲渡問題詳細は「香港返還」を参照

1982年9月、サッチャーは中国を訪問し、ここに英中交渉が開始されることになった。ケ小平は「港人治港」の要求で妥協せず、イギリスが交渉で応じない場合は、武力行使や水の供給の停止などの実力行使もありうることを示唆した。当初、イギリス側は租借期間が終了する新界のみの返還を検討していたものの、イギリスの永久領土である香港島九龍半島の返還も求める猛烈なケ小平に押されてサッチャーは折れた恰好となった。

1984年12月19日、両国が署名した英中共同声明が発表され、イギリスは1997年7月1日に香港の主権を中華人民共和国に返還し、香港は中華人民共和国の特別行政区となることが明らかにされた。この譲渡及び返還決定は、フォークランド紛争の際と対照的な弱腰の姿勢が国内から大きな批判を浴びた。
南アフリカ共和国

1986年7月のコモンウェルスゲームズ大会では、サッチャー政権の南アフリカアパルトヘイト政策に抗議した32か国が、大会をボイコットした。イギリス連邦に属する国家・地域がアパルトヘイト廃止のために経済制裁を支持していたが、サッチャー政権はイギリスの貿易と経済への影響を考え、経済制裁には反対していた。
ドイツ

サッチャーは若年期に第二次世界大戦によるナチス・ドイツとの激しい戦争を経験しており、そのためドイツに対して強い警戒心を持ち続けていた。ドイツ再統一に当たっては、フランスミッテラン大統領と共に強い懸念を持っており、特にサッチャーは、「統一が実現すれば、英雄となるコールが第2のヒトラーとなり、第二次世界大戦前までのドイツの領土全てを要求してくる」という考えに囚われていた[21]。また、「コールはドイツが分割された理由を分かっていない」と憤り、「ベルリンの壁崩壊の翌日、連邦議会西ドイツの議員たちが自発的にドイツ国歌を歌ったという報告を聞いて戦慄した」という[22]
イラク

1990年8月1日のイラククウェート侵攻の際に起きたブリティッシュエアウェイズ149便乗員拉致事件では、当該のBA149便がクウェートに着陸した経緯についてイギリス議会で問題とされたものの、サッチャーは「着陸後1時間経ってから侵攻が行われた」と証言をした。しかしこのことは、サッチャーの回顧録内で嘘の証言であったことが明らかにされている[23]
首相辞任

保守的かつ急進的な改革を断行する強い姿勢から3度の総選挙を乗り切ったサッチャーだったが、任期の終盤には人頭税(community charge)の導入を提唱してイギリス国民の強い反発を受け、またヨーロッパ統合に懐疑的な姿勢を示した。

この為財界からもイギリスがヨーロッパ統合に乗り遅れる懸念を表明する声が上がり、1990年11月の党首選挙では1回目の投票で過半数を獲得したものの、2位との得票数の差が15パーセント以上に達せず、規定により第2回投票が行われることとなったために求心力がさらに低下し、11月22日に首相・保守党党首を辞任する意向を表明した。11月28日にダウニング街10番地(首相官邸)から退居し、後任にはジョン・メージャーが就任した。

首相在任期間は「11年と208日間」であった。これは、20世紀以後の歴代イギリス首相では最長記録であり、初代のロバート・ウォルポール首相からの歴代首相の中でも7番目の長期政権を記録した。
首相辞任後とその晩年

1992年6月からは貴族院議員を務め、政治の表舞台から退いた。2008年8月に長女のキャロルが、サッチャーの認知症が進み、夫が死亡したことも忘れるほど記憶力が減退していることを明かし、2008年8月24日付けの『メール・オン・サンデー(英語版)』紙が詳報を掲載した。それによると、8年前から発症し、最近は首相時代の出来事でさえも「詳細を思い出せなくなってきた」としている[24]。一方でサッチャーの功績に関する書籍を出版したイアン・デールは、2010年にサッチャーと面会した際には目の前の出来事を把握するのに難があったものの、首相時代の記憶ははっきりしていたと証言している[25]。2012年12月21日には膀胱にできた腫瘍を取るために入院して手術を受けた[26]

2013年4月8日、脳卒中により死去したことがサッチャー家のスポークスマンより発表された[27][1]


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