マン島は複数の国の間で統治権が移動する複雑な歴史を持っており、周辺の島やイングランド・アイルランドとも異なる独自の文化を築いてきた。1405年以降はマン島領主を名乗るイングランド貴族のスタンリー家
(英語版)(ダービー伯爵)が代々統治してきた。1765年のマン島購入法(英語版)成立によって王室がマン島の支配権を購入し、それ以降はイギリス(連合王国)の君主がマン島領主を世襲している。マン島はアイリッシュ海に浮かび、海岸には崖、海食柱、島嶼、砂浜がある。丘陵には泥炭地があり、北部の海岸平野には草地、池、湿地がある。特に東部の丘陵地帯には木々が茂った谷が多い。島の湿地にはサリクス・キネレア
(英語版)、カバノキ属などの生える低木林およびヨウシュヌマガヤ(英語版)の草地とフェンがある[4]。島にはウズラクイナ、ハイイロチュウヒなどの鳥類[4]、8種のコウモリ、オコジョ、ヨーロッパミンクなどの哺乳類、そして唯一の両生類であるヨーロッパアカガエルと爬虫類のコモチカナヘビが生息しており、ヤブノウサギ、ユキウサギとナミハリネズミの導入または再導入も行われる。周辺の海域、特に北東部のラムジー湾(英語版)は生物多様性に富んでおり、多毛類のアリアケカンムリゴカイ属(英語版)およびエゾヒバリガイ(英語版)などの貝類が生息する礁およびミール(英語版)と海草の藻場が発達しており、ヨーロッパウナギ、タイセイヨウダラ、ウバザメ、ハナゴンドウ、ハンドウイルカ、マイルカ、ミンククジラなどが生息している[5]。マン島と周辺の海域は2016年にユネスコの生物圏保護区に指定され[5]、北部のバラフ教区(英語版)にあるバラフ・カラフ(英語版)という湿地はラムサール条約登録地である[4]。 マン島は法的にはグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国の一部ではなく、また主権国家でないためイギリス連邦 (commonwealth) の加盟国でもなく、自治権を持ったイギリスの王室属領 (Crown dependency) である。しかしイギリスとの密接な関係からイギリス連邦の一部と見なされることも多く、イギリス連邦議会連合
マン島の法的地位
イギリスが1973年から2020年までEUに加盟していた際にマン島はEUに参加せずに代表も送らなかったが、イギリスの特別領域として扱われた。
歴史詳細は「マン島の歴史(英語版)」を参照島中央部にあるブライド。ケルト=ヴァイキング時代の円形住宅と、2つのロングハウスの遺跡
紀元前8000年頃に水位が上昇し、マン島は周囲の島々から切り離された。状況的な証拠から、島への定住は紀元前6500年以前に行われたことが示されている[7]。最初の住民は小さな小屋に暮らし、狩りや釣りをして食糧を集めていた。彼らは燧石や骨で作った小さな道具を使っていた。これらは海岸近くで多く見つかっている。これら工芸品の代表はマンクス博物館に所蔵されている[8]。
新石器時代に、農業の知識、優れた石器や陶器が伝わった。この時期に、巨石記念物が島の周囲に現れるようになった。この時代の巨石記念物として、Cashtal yn Ard、King Orry's Grave、Meayll Circle、Ballaharra Stonesが挙げられる。
青銅器時代、巨石記念物を建てた人々の大きな共同墓は、小さな古墳に置き換えられた。遺体は装飾用容器とともに並べられた石の墓に入れられた。[9]。
鉄器時代にケルト文化が影響を与え始めた。丘の頂上に大きな砦がつくられ、海岸沿いの崖の上にはより小さな砦が建てられた。木組の大きな円形住宅が建てられていた。5世紀頃、アイルランドからの移住者の文化的影響がゲール語化の過程を促進し、マン島語を生み出した。このことはオガム文字の碑文が証明している。マン島語はアイルランド語やスコットランド・ゲール語と密接な関係を保っている[10]。
マン島へのヴァイキング定住は8世紀終わりのことだった。ヴァイキングがティンワルドという議会を設置し、現在も残る多くの土地区画を導入した。スカンディナヴィアの支配を受けている間、名目上の宗主権をノルウェーの王が保有していたが、ノルウェー王が宗主権を主張するのはわずかな機会に限られた。
12世紀以降、ノルウェーの内政の混乱によってマン島への支配が弱まると、代わって勢力を伸ばしてきたスコットランド王国と衝突するようになった。13世紀半ば、マン島および島嶼部の王であったマグヌス・オラフソンはノルウェー側にたって戦ったが、マン島を除く全ての島を放棄して降伏させられた。マグヌス死後の1266年、ノルウェー王マグヌス6世は、スコットランドとの間に結んだパース条約によって、マン島を含む島嶼部を割譲した。しかし、スコットランドのマン島支配は1275年のロナルズウェーの戦いでマン島人を退けるまでは、定着したとは言い難かった。
13世紀以降にマン島の支配権は、スコットランド、イングランドと二転三転した。ヘンリー4世の時代にマン島はイングランド王家のものとなり、1405年にジョン・スタンリー(英語版)に島が授けられた。以後、ジョン・スタンリーの子孫であるダービー伯爵家がマン島領主を兼ねた。彼らは滅多に島に来ることはなく、代官を派遣して島を治めた。
1736年、第10代ダービー伯ジェームズ・スタンリーが嫡男をもうけることなく他界し、マン島の領主位を継承したのはダービー伯爵家の男系子孫であるスコットランド貴族、第2代アソル公爵ジェームズ・マレーであった。1765年にマン島購入法(英語版)によって、第2代アソル公爵の成人した唯一の子で第3代アソル公爵ジョン・マレーの妻であるアソル公爵夫人シャーロット・マレー(英語版)は、父親から継承していたマン島領主としての宗主権をイギリス政府に7万ポンドで売却し、年2000ポンドの年金を得ることとなった。
1919年にはイギリス本土に先駆けて婦人参政権が導入されている[11]。第二次世界大戦中には非武装地帯となったが、1942年から1945年には在英日本民間人の強制収容所が設置されていた[12]。