マンボ
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また1955年6月には雪村いづみがマンボ・イタリアーノ(英語版)をカバーした[6]が、その後、民放ラジオで視聴者参加型番組ののど自慢番組が大流行し、それらの番組でマンボ・イタリアーノなどのマンボを唄う若い女性(マンボ娘)が増えたとされる[7][8][注 1]。その後、同年11月には前述の雪村いづみを含む三人娘の主演するミュージカル映画「ジャンケン娘」が主題歌にオリジナルのマンボ『ジャンケン娘』を採用し[注 2]、三人娘は前述のセレソ・ローサの両国国技館での最終3日間公演でもそれぞれ前座をつとめた[5]

マンボ楽曲のマーケティングにおいて特徴的な面は、ダンスホールを講師が巡回し、ダンス講習会が開かれたことである。以降も、舶来のダンスジャンルの楽曲が輸入された時には、同様の宣伝方法がとられるようになる。この若者を中心とした新しい文化はマンボ族と呼ばれ世間一般の風当たりは強かったが、芸術家の岡本太郎は「踊りは近代と原始をミックスした魅力がある」と絶賛、積極的に擁護した[11]

1957年にカリプソが流行すると、マンボ人気は徐々に衰えてゆく。プラードは時を同じくして流行したロカビリーと融合させた「ロカンボ」を発明、米国ではヒットした[12]。しかしながら、ロカンボは日本には浸透せず[12]、代わりに日本ではドドンパ(別名フィリピン・マンボ)ブームが起き[13]、1960年前後に登場した六本木の若者(六本木族)もドドンパを踊るのが一般的となっていった[14][15]

またファッションでも1955年前後よりマンボズボンを初めとするマンボ・スタイルが流行していった[16][17]が、1960年代にはマンボズボンが衰えて、代わりにベルボトム(ラッパズボン)が流行していった[18][19][注 3](その後、ラッパズボンは1960年代後半に登場したフーテン族のトレードマークともなる[21])。
代表的なアーティスト

ペレス・プラード

ザビア・クガート

ティト・プエンテ

ティト・ロドリゲス

殿さまキングス

Video

Documentary 52': MAMBO

脚注^ なお、同年には日本マーキュリーよりマンボ娘をテーマとしたレコード『東京マンボ娘』(唄: 草葉ひかる)が登場したものの売れなかったとされる[9]。また1956年には俳優座によりマンボ娘の登場する新劇「二人だけの舞踏会」が行われている[10]
^ なお、他にも1952年には三人娘の一人の美空ひばりが『お祭りマンボ』を歌っていたが、マンボからは遠いものとなっていた。
^ 流行元は不明だが、1962年秋には日本の紳士服に英国調が復活し、そこでラッパズボンが出てきたとされる[20]

出典^http://www.allmusic.com/artist/perez-prado-mn0000310383
^ 輪島, pp. 57?59.
^ 輪島, pp. 59?60.
^ 輪島, pp. 70?71.
^ a b 輪島, pp. 72?76.
^ 『Mambo Italiano』 ビクター 1955年6月 A-5197
^ 「放送時評 マイクは冷たかったか ーー真杉静枝さんの「声」をめぐって」『放送 2(5)』 pp.48-49 日本放送文化協会 1955年8月 [1]
^ 「マンボ娘とアルバイト集団」 『放送 2(6)』 pp.12-13 日本放送文化協会 1955年9月 [2]
^ 『政界往来 50(12)』 政界往来社 1984年12月
^ 目白学園女子短期大学 編『目白学園女子短期大学研究紀要 (27)』 p.336 目白学園女子短期大学 1990年12月 [3]
^ 輪島, pp. 78?80.
^ a b 輪島, pp. 94?95.
^ 「魅惑のステップ『ドドンパ』」『婦人生活 15(5)』 p.192 婦人生活社 1961年5月 [4]
^ 「街族」を再検証する-「六本木族」「みゆき族」「原宿族」 p.218 明治大学文芸研究会 2015年4月3日


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