以下はマンハッタンの人種別の人口構成。
人口構成2018年[10]2010年[11]1990年[12]1950年[12]1900年[12] マンハッタンは宗教的に多様である。 2000年に最大の宗教的所属はカトリック教会で、564,505人の支持者(人口の36%以上)で、110の会衆を維持していた。 ユダヤ人は、102の会衆で314,500人(20.5%)の2番目に大きい宗教グループを構成した。3番目はプロテスタント、139,732人のフォロワー(9.1%)、4番目はイスラム教徒、37,078(2.4%)である[13]。 ヒンズー教、無神論および無宗教を含む他の宗教的所属が、残りの大半を構成した。 2010年時点で、5歳以上のマンハッタン居住者の59.98%(902,267人)は自宅で英語のみを話し、23.07%(347,033人)スペイン語、5.33%(80,240人)中国語、2.03%(30,567人)フランス語、0.78%(11,776人)日本語 、0.77%(11,517人)ロシア語、0.72%(10,788人)韓国語、0.70%(10,496人)ドイツ語、0.66%(9,868人)イタリア語、0.64%(9,555人)ヘブライ語、0.48%(7,158人)自宅でアフリカ言語を話している。 合計で、5歳以上のマンハッタンの人口の40.02%(602,058人)は、自宅で英語以外の言語を話した。[14] ニューヨーク州はアメリカ建国13州のうちの11番目の州である。 もともとこの地には、レナペ族(デラウェア族)、ワッピンガー族などのインディアン部族がウィグワムによる移動型集落を形成し、トウモロコシや豆、カボチャなどを栽培し、狩猟採集の生活を営んでいた。領土的にはレナペ族がほぼ独占していた。
コーカソイド(白人)64.5%57.4%58.3%79.4%97.8%
他の人(ヒスパニック系ではない)47%48%48.9%不明不明
アフリカ系アメリカ人(黒人)17.9%15.6%22.0%19.6%2.0%
ヒスパニック(人種は様々)25.9%25.4%26.0%不明不明
アジア系12.8%11.3%7.4%0.8%0.3%
宗教
言語
歴史詳細は「ニューヨーク市の歴史」を参照かつてのレナペ族(デラウェア族)インディアンの勢力範囲1660年当時、マンハッタンはニューアムステルダムの一部だった。右側が北。
1524年:レナペ族の乗るカヌーが、探検家ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノの船と現在でいうニューヨーク港で出会っている。彼はロングアイランドとスタテンアイランドを発見したが、マンハッタン島には到達しなかった。
1609年:オランダ人の資金援助でマンハッタンにたどり着いたヘンリー・ハドソンの名がハドソン川の由来となっている。ハドソンの船の乗組員のロバート・ジュエットは、この島について航海日誌に「マンナ・ハッタ (Manna-hata)」と記述している。
1613年:オランダ人の毛皮取引商Juan Rodriguez
1614年:オランダ人アドリアン・ブロックの探検したエリア(ニューヨークを含む)に、祖国の名にちなんだニーウ・ネーデルラントの設立が宣言された。
1624年:ガバナーズ島がニーウ・ネーデルラントの最初の恒久的入植地となる。
1625年:マンハッタン島最南端にフォート・アムステルダムが建設され、ニーウ・ネーデルラントの首都としてニーウ・アムステルダムがこの場所に設立された。この年が、ニューヨーク市の公式創立年となっている。
1626年:この年、オランダ西インド会社がマンハッタンを「インディアンたちから24ドル相当で買い取った」と一般に言われている。が、これは実際には、60ギルダー分の交易品との交換だった。60ギルダーがどれくらいの価値かというと、「1626年当時に、ビールの大ジョッキを2400杯買うことができるくらいの金額」である。ただしオランダ人入植者に「マンハッタンを売った」という部族は、レナペ族ではなく、実はマンハッタン島を縄張りにしておらず、レナペ族とオランダ人の抗争の漁夫の利を狙って騙したのだった。また、そもそもインディアンには「土地を金で売る」という文化は無かったので、この取引自体理解していたかどうか疑わしい。実際、島を買い取ったと思い込んだオランダ人とレナペ族とは長く抗争が続いた。
1664年:イングランド国王チャールズ2世の弟、ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)が第二次英蘭戦争(英語版