マンハッタン
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

3番目はプロテスタント、139,732人のフォロワー(9.1%)、4番目はイスラム教徒、37,078(2.4%)である[13]ヒンズー教無神論および無宗教を含む他の宗教的所属が、残りの大半を構成した。
言語

2010年時点で、5歳以上のマンハッタン居住者の59.98%(902,267人)は自宅で英語のみを話し、23.07%(347,033人)スペイン語、5.33%(80,240人)中国語、2.03%(30,567人)フランス語、0.78%(11,776人)日本語 、0.77%(11,517人)ロシア語、0.72%(10,788人)韓国語、0.70%(10,496人)ドイツ語、0.66%(9,868人)イタリア語、0.64%(9,555人)ヘブライ語、0.48%(7,158人)自宅でアフリカ言語を話している。 合計で、5歳以上のマンハッタンの人口の40.02%(602,058人)は、自宅で英語以外の言語を話した。[14]
歴史詳細は「ニューヨーク市の歴史」を参照かつてのレナペ族(デラウェア族)インディアンの勢力範囲1660年当時、マンハッタンはニューアムステルダムの一部だった。右側が北。

ニューヨーク州はアメリカ建国13州のうちの11番目の州である。

もともとこの地には、レナペ族(デラウェア族)、ワッピンガー族などのインディアン部族がウィグワムによる移動型集落を形成し、トウモロコシや豆、カボチャなどを栽培し、狩猟採集の生活を営んでいた。領土的にはレナペ族がほぼ独占していた。

1524年:レナペ族の乗るカヌーが、探検家ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノの船と現在でいうニューヨーク港で出会っている。彼はロングアイランドスタテンアイランドを発見したが、マンハッタン島には到達しなかった。

1609年オランダ人の資金援助でマンハッタンにたどり着いたヘンリー・ハドソンの名がハドソン川の由来となっている。ハドソンの船の乗組員のロバート・ジュエットは、この島について航海日誌に「マンナ・ハッタ (Manna-hata)」と記述している。

1613年オランダ人の毛皮取引商Juan Rodriguezが、商売のためにマンハッタン島に到達し、ヨーロッパ人で初めて現在のニューヨーク市域内の住人となった。

1614年:オランダ人アドリアン・ブロックの探検したエリア(ニューヨークを含む)に、祖国の名にちなんだニーウ・ネーデルラントの設立が宣言された。

1624年ガバナーズ島がニーウ・ネーデルラントの最初の恒久的入植地となる。

1625年:マンハッタン島最南端にフォート・アムステルダムが建設され、ニーウ・ネーデルラントの首都としてニーウ・アムステルダムがこの場所に設立された。この年が、ニューヨーク市の公式創立年となっている。

1626年:この年、オランダ西インド会社がマンハッタンを「インディアンたちから24ドル相当で買い取った」と一般に言われている。が、これは実際には、60ギルダー分の交易品との交換だった。60ギルダーがどれくらいの価値かというと、「1626年当時に、ビールの大ジョッキを2400杯買うことができるくらいの金額」である。ただしオランダ人入植者に「マンハッタンを売った」という部族は、レナペ族ではなく、実はマンハッタン島を縄張りにしておらず、レナペ族とオランダ人の抗争の漁夫の利を狙って騙したのだった。また、そもそもインディアンには「土地を金で売る」という文化は無かったので、この取引自体理解していたかどうか疑わしい。実際、島を買い取ったと思い込んだオランダ人とレナペ族とは長く抗争が続いた。

1664年イングランド国王チャールズ2世の弟、ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)が第二次英蘭戦争(英語版)に勝利し、この地を制し、現在の市名ニューヨークに改名した。
1900年のマンハッタン。現在もこのような景色は至る所に残る1931年撮影

1776年アメリカ独立戦争ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦においてマンハッタンは、キップス湾の上陸戦9月15日)、ハーレムハイツの戦い9月16日)およびワシントン砦の戦い11月16日)の舞台となった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:155 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef