マレー作戦
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マレー作戦(マレーさくせん、馬来作戦)は、1941年12月8日太平洋戦争/大東亜戦争日本軍が実施した南方作戦内のイギリス領マレー方面の作戦。マレー作戦では本戦争において全ての他の作戦に先行して攻撃が開始された[8]

南方作戦陸海軍中央協定で定められた作戦名称はE作戦[9]シンガポール島攻略を最終目標にしており[10]、1942年2月15日にそれを達成した[11]
計画英領マレー。マレー作戦の最終目標であるシンガポール島はこの南端にあった。

日本軍は南方作戦の実施を開戦と同時に行うことを計画していた。南方作戦の目標は、香港、シンガポール、マニラの重要軍事拠点を覆滅して東亜における英米勢力を一掃するとともに、国力造成上の見地からスマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスおよびマレーなどの重要資源地帯を攻略確保することであった[12]。南方作戦の攻略目標は、マレー、ジャワ、フィリピンの三つが柱になっていた。そして、資源地帯の蘭印の中心ジャワを最終目標とし、対米作戦を重視する海軍はアメリカ領のフィリピンを先攻重視して右回りする作戦を主張し、英米可分を期待していた陸軍はマレーを先攻重視して左回りする作戦を主張した。左右の作戦は並行して行われるが、どちらを先攻させるか、あるいは両方同時に攻める二本建てかが問題であった[13]

また、南方作戦の議論ではマレー上陸作戦を開戦劈頭急襲的に行うか、航空撃滅戦後に実施するかが課題となった[14]。陸軍は南方作戦の根本方針を先制急襲としており、英領のシンガポールの早期攻略を企図していた。そのため、マレー上陸案として航空撃滅戦と同時に数地点に急襲上陸する甲案を企図した。しかし、この案は英航空戦力をそのままにして長途の渡洋接敵ののち上陸することであり、上陸の前日に企図が暴露することは必然と考えられ、輸送船団や護衛艦隊に大きな損失が出ると予想された。そのため、海軍はこれに反対し、航空撃滅戦を行った後に上陸を行う乙案を出した。その後、議論が重ねられ、甲案を本則として乙案の場合は先遣兵団集合点出発前にこれを決定特令することになった。しかし、敵の航空を撃滅しない危険は残り憂慮され、上陸失敗の場合の対策も講じられた[15]

南方攻略作戦はマレーからの左回り作戦とフィリピンからの右回り作戦の二本建てでジャワを目指す案となって、1941年10月29日までに南方作戦陸海軍中央統帥部における南方作戦の計画書類の策定が終わり[16]、マレー作戦は南方作戦陸海軍中央協定において作戦名称は「E作戦」と定められた[9]。南方作戦陸海軍中央協定には、「英領馬来(マレー)に対する作戦目的は、同方面の敵を撃破して其の要地特に新嘉坡(シンガポール)を攻略し、東亜に於ける英国の根拠を覆滅するに在り」と定められている[17]。陸軍は南方軍作戦計画のマレー方面については、第一期は「第二十五軍(四師団基幹とす)は海軍と協同し速やかに「シンガポール」を攻略す」、第二期は「第二十五軍は海軍と協同し「シンガポール」「ペナン」等馬来方面の要地を確保する」(以下のスマトラ方面については省略)、第三期は「第二十五軍(三師団を基幹とす)は英領馬来、英領「ボルネオ」及北部「スマトラ」の要域を安定確保す」と定めている[18]

マレー作戦の最終目的は英領の要のシンガポール島の攻略であり、第二十五軍が南タイ上陸以降に行う作戦はその前哨戦である。そのため、第二十五軍の戦力などはシンガポール島攻略を基礎として決められている。しかし、シンガポール攻略を研究するだけの資料がないため、兵力量算定の前提条件も不明のままで現地軍に一任することとなった[10]。背面攻撃ということもあり、第二十五軍の兵力なら可能であろうと判断されたが、第二十五軍も作戦初期には具体的計画を立てられず、計画に着手したのはクワラルンプール占領後で、準備が軌道に乗ったのはクルアン占領後のことである[19]

シンガポール島の前面に進出するまでには、困難な渡洋上陸作戦があり、その後さらに千キロメートルを超える長隘路の突破作戦がある。日本が開戦直前に想定した英軍のマレー方面の兵力判断は正規軍七、八万、義勇軍二万の計十万前後であった[20]

南方作戦はハワイ、マレー、フィリピン、香港、グアムに対して先制攻撃をもって開始されるが、海軍は期待をかけたハワイ空襲に奇襲が必要とし、陸軍は長途の危険な渡洋作戦からマレー作戦に奇襲が必要とした。ハワイの明け方はマレーの夜半にあたり、マレー作戦のコタバル上陸がハワイ攻撃に先行しない限度でなるべく早く行うように規制する必要があった。1941年11月10日の東京協定でハワイ攻撃を優先すると陸海軍が確認したが、この攻撃要領ではハワイ攻撃は航空部隊が夜間発艦となっており、11月23日に機動部隊が検討の結果から黎明発艦へ変更し、空襲時刻を一時間半遅らせた。海軍は今さら陸軍に延期を申し出るわけにいかず、夜間発艦のハワイ攻撃に合わせて上陸を予定していたマレー作戦の上陸が先行することになった[8]。この作戦は開戦前に宣戦布告を行う予定であった対米開戦とは異なり、宣戦布告無しで対英開戦することは予定通りであった。この時の日本軍の開戦日の暗号は大本営陸軍部第1部第2課作戦班班長補佐瀬島龍三少佐考案の「ヒノデハヤマガタ(ヒノデハヤマガタトス)」である。
開戦前の英領マレー.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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