イギリス統治下において奴隷的な立場で連れられてきた賃金労働者の子孫(苦力など)[41] も多数存在している。 華人系の中には英語のみを母語とする家系が存在する。これら英語話者の華人系住民は、英国統治下の時代に「英国人」として海峡植民地(ペナン、マラッカ、シンガポール)において支配階層(英籍海峡華人公会[42])を形成していた華僑の末裔であり、錫鉱労働者などの(出稼ぎ)労働者として移り住んだグループ(トトックと呼ばれる[43])と区別してプラナカン(海峡/英語派華人[44])と呼ばれる[45]。その多くが旧宗主国に忠誠を誓ったため、故郷(中国本土)との関係が希薄となった。現在でも本土との関わり合いはほとんどなく、逆にシンガポールやインドネシアに住む華人グループとの結び付きが深い。たとえば、シンガポールの人民行動党は、独立以前のシンガポール周辺地域におけるプラナカン系の民族政党
プラナカン(海峡華人)
プラナカンとマレー人や英国人などの他の民族との混血のことをババ(男)・ニョニャ(女)と呼ぶ。いずれも華人系であり、混血化が起きてからかなり経つ場合もあるため、プラナカンとババ・ニョニャの区別は曖昧[47] なこともある。 「印僑」とも呼ばれることのあるインド系は南インド出身者(タミル人)が多く、マレーシアにおけるインド文化もタミル人の風習を色濃く受け継いでいる。ただし、かつてはアーリア系の北インド出身者も少なくなく、高い社会的地位を享受していた[48]。しかし、70年代を通してマレー系の地位が飛躍的に向上したことから、富裕層であった北インド出身者の帰国が相次ぎ、結果として貧困層が多い南インド系が主流となったといわれる[49]。 現在はサイバージャヤといった地域でIT系の技術者として働くために本土から移民してきた新世代も増えつつある。ごく小規模だが、パンジャーブ人(シク教徒)のコミュニティも存在し、弁護士・会計士などの職業についているものも多い。 タミル系移民がイスラムに改宗した「ママック
インド系住民
なお、マハティール元首相は母親がマレー系、父親がインド南部のケーララ州からの移民であり、「マレー系」であるのか「インド系」であるのか出自問題が議論されたこともある。 ユーラシアンとは「ヨーロッパ (Euro-) とアジア (Asian)」を意味する少数民族のことであり、旧宗主国からやって来たヨーロッパ人とアジア系移民との混血系を指す。 ほかに、ポルトガル系とマレー系の混血をクリスタン
混血系住民
また、華人系とインド系の結婚もみられ、両民族間で生まれた子どもをチンディアン[52] と呼ぶ。 マレーシア史上最大の民族対立事件である5月13日事件以降、華人系とマレー系の対立構造が鮮明となった。詳細は「5月13日事件」を参照 マレー系の保守政治家の一部が「他民族が居座っている」または「間借り人である」といった趣旨の差別発言をすることがあるが[53][54]、マレーシア建国時(憲法上「マレーシアの日」と呼ぶ[55])の協定(1957年制定マレーシア憲法第3章[56])において、マレー半島およびボルネオ島の該当地域で生まれたすべての居住者に国民となる権利が認められているため、正確な理解とは言えない。この発言にも見られるように、マレーシアは多民族社会とはいえ、その内情は必ずしも平和的なものではなく、民族間の関係は常に一定の緊張をはらんだものとなっている。 実際、各民族の居住地域は明らかな偏りがあり、たとえば華人系はジョホール・バルやクチン、ペナン(ジョージタウン)、イポー、コタ・キナバルといった都市部に集団で居住していることが多く、インド系は半島南部やボルネオ島西部の農村部、あるいは大都市圏のスラム化した地域に多い。唯一、最大都市クアラルンプールのみが国全体の民族比率に準じているが、生活習慣の違いといった理由から、民族間の交流はあまり盛んではない。 2008年には、住民を起訴なしで無期限拘束できる国内治安法に対する大規模な反対集会が開かれ、翌年にも同様のデモが行われた[57][58]。
民族対立
言語マレー語、英語、中国語、タミル語で書かれた看板「マレーシアの言語
公用語の名称は「マレー語」か「マレーシア語」であるかの議論が今も続いている。広義の「マレー語」はインドネシア語などを含む場合があるため、政府が「マレーシアの国語としてのマレー語」を「マレーシア語 (Bahasa Malaysia)」と呼ぶことを定め、この呼称が2007年より正式に使われているとの説を採る一部の学者に対して、憲法第152条の明記やら大学教育機関での名称を考慮して、あくまでも「国語はマレー語 (bahasa Melayu) である」とする多数の学者がマレーシア国内外に存在する。