マルメディ虐殺事件
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このような痕跡から、アメリカ軍は虐殺があったと断定している。一方、ドイツ兵は虐殺の前に金目のものを奪っていったとする証言もあるが、実際には遺体の多くが指輪や時計、金銭など貴重品を所持したままだった。理由は不明だが、大半の遺体からは認識票が失われており、身元の特定は私物などから行われた[1]

ファイブ・ポインツに残されたドイツ兵たちは、非常に現実的な問題に直面していたことになる。速やかにリヌーヴィルを攻撃してアメリカ軍司令部を占領するという戦闘団の任務にはすでに12時間も遅れが出ており、パイパーはファイブ・ポインツを出発する際、彼らにも可能な限り急いで本隊に合流するよう命じていた。彼らは比較的小規模な車両部隊であり、捕虜を引き渡せるような歩兵部隊は付近に展開していなかった。100人を超える捕虜は武装解除こそされていたものの、そのまま監視下に長く留めておくことは困難だった。戦闘団は道路に沿ってアメリカ軍の勢力圏を貫くように前進してきたため、道の両側は依然として敵が展開している可能性が高く、通常のように後方へ行進してドイツ軍に投降するよう命じることもできなかった。加えて、マルメディから強力なアメリカ軍部隊が南下してくる恐れは常にあった。銃撃が誰の命令によって始まったのかは定かではない[1]

こうした証言や状況から、この虐殺は計画的なものではなく、捕虜の取り扱いについて決断を迫られたドイツ側の誰かの判断によるもの、あるいはアメリカ兵らの起こした混乱や脱走の試みを発端とする偶発的なものと考えられている[1]
調査および遺体の回収虐殺現場からの遺体回収作業にあたるアメリカ兵

この事件において、80人近くのアメリカ兵が降伏後に殺害された。しかし、一握りながら生存者もいた。例えば、降伏直前に中隊を離れ森に隠れていた者や、銃撃の際に逃げて身を隠すことに成功した者、あるいは死体に紛れて死んだふりをしてドイツ兵をやり過ごした者である。彼らはマルメディへと向かい、第291工兵大隊に事件の顛末を報告した[2]。事件のニュースは彼ら生存者から周囲の兵士へ伝わった後、『ヤンク』誌、『星条旗新聞』、『ライフ』誌などの記事としてアメリカの人々に伝えられた[4]

アメリカ軍の指導部ではファイブ・ポインツで虐殺があった疑いが強いとして、捜査のために監察班(Inspector General team, IG)の派遣を決定した。米第1軍では、現地に遺骨収集部隊を派遣し、IGは回収任務の全般的な指揮を行うという方針を立てた。ただし、ボネ周辺の確保が難航したため、派遣自体は延期された。この任務に割り当てられた第3060兵站埋葬確認業務中隊第4小隊(3060th Quartermaster Graves Registration Service Company’s 4th Platoon)は、10月から活性化された部隊であり、12月末から戦地での埋葬確認任務に従事していた。1945年1月13日、ボネ周辺の確保が完了した直後、第4小隊が現場に入った。作業は14日から15日にかけて実施された。ドイツ軍は埋葬することもなく遺体を放置していったが、降雪と低い気温のため、保存状況は極めて良好であった。現場は依然として最前線であり、ドイツ軍の砲撃で作業が中断したり、遺体が損壊されるなどした。目撃者の不足や気象条件、あるいは砲撃のため、遺体の捜索は難航した。その後、回収された遺体は現場から数百キロ離れた安全な鉄道ビルまで運ばれ、身元確認およびIGの捜査のための解剖などが執り行われた[2]。遺体は当初72体が回収されたが、4ヶ月後の雪解けの際にさらに12体が発見された[3]

現在、ボネの慰霊碑には84人の名が記されているが、これには誤りも多く、何度か議論の的となった。単純な綴りの誤りだけではなく、犠牲者の名が誤って削除されたこともある。また、ある上等兵は確かに遺体が1月17日にファイブ・ポインツ付近で回収されたので虐殺の犠牲者に含まれていたが、後に事件とは関係のない1月3日のファイブ・ポインツ付近の戦闘での戦死者だと明らかになった。こうした誤りは、後に親ナチス的な立場の人々がアメリカ軍による事件の捏造、あるいは誇張についての疑いを抱く原因となった[1]
戦後旧ダッハウ強制収容所内に設置された軍事法廷裁判中のパイパー詳細は「マルメディ虐殺事件裁判(英語版)」を参照

1945年夏、アメリカの占領当局はライプシュタンダーテ師団の元隊員ら1,000人以上を尋問し、75人をマルメディの虐殺に関連して起訴した。ただし、1人は自殺し、1人はフランス市民権を持つことが明らかになったので、対象から外れている。裁判にあたって、マルメディの虐殺は「合衆国対ヴァレンチン・ベルシンほか」(U.S. vs. Valentin Bersin, et al.)と称された。ベルシンはアルファベット順の名簿の一番上にあった被告人であり、後にベルギー市民の殺害に関連して死刑判決を受けている[3]

1946年5月16日、パイパーをはじめとするパイパー戦闘団の元隊員73人を被告として、 戦闘団が関与したとされる周辺地域での一連の虐殺に関する裁判が行われた。軍事法廷は旧ダッハウ強制収容所に設置された。この軍事法廷はアメリカにおける一般的な裁判とは大きく異なる不公平なものだった。尋問の前から有罪は決まっており、立証責任は弁護側に負わされていた。判事、陪審員、弁護人の全てをアメリカ軍の将校が務めた。弁護人は犯罪が行われなかったと主張することを認められていなかった。伝聞、あるいは法廷に出頭せず弁護側が尋問できなかった証人の宣誓供述書も証拠として認められた。ダッハウでの裁判では、検察側が証言を行った証人に報酬を与えていた例もある。被告人の一部は、自分たちの弁護のために証言することを認められていなかった。最終的に、538人から749人の捕虜と90人以上のベルギー市民の殺害について、被告全員に有罪判決が下された[3]

パイパーは事件について、「随分と前のことだ。私には真実などわからない。知っていたとしても、ずっと前に忘れてしまった。私にわかることは、良き指揮官たる者として、事件の責任を認め、それに応じて罰せられたということだ」と述べた。また、部下を釈放するのなら自分が一切の責任を負うとも申し出たが、法廷によって却下された。死刑に際しては軍人らしく銃殺刑を望むと弁護人を通じて伝えたが、これも認められなかった[3]

銃後のアメリカにおいて、マルメディに関する裁判はドイツにおける戦犯裁判の中でも特に注目されたものであり、ニュース映画も作成された。当時、バルジの戦いは西部戦線における最も重要で象徴的な戦闘とされていたためである。この戦犯裁判は、単に戦争犯罪者を裁く場というだけではなく、アメリカ、そして占領下ドイツの市民に、アメリカの兵士が「正しいもの」のために戦い、死んだのだと思わせるためのものでもあった[3]

判決後、被告人らが裁判のあり方を批判した。彼らは時に拷問を含む不適切な手段で自白を強要されたとして、裁判で採用された供述はそうした強要によるものだとした。裁判で主任弁護人を務めたウィリス・エヴェレット大佐(Willis Everett)は、帰国し1947年に退役した後にも、被告人らの代理人として活動し続けた。こうした批判が広く注目を集めるようになると、米陸軍長官から裁判に関する調査委員会の設置が宣言された。裁判への批判について、ドイツの退役軍人、ドイツの大衆、戦犯被告の釈放を訴えていた宗教系団体のほか、アメリカ国内にも支持者がいた。委員会のメンバーでもあったエドワード・ヴァン・ローデン判事(Edward Van Roden)もその一人で、彼はマルメディに関する裁判の有効性に疑問を呈していた。1948年3月20日、委員会による調査を経て、パイパーおよびその他11人を除く31人について、判決が終身刑に減刑された。また、13人は証拠不十分で釈放された[4]

1949年に開かれた上院公聴会では、特別に出席が認められたジョセフ・マッカーシー議員が主導的な立場をとった。焦点となったのは尋問官らの行動の動機である。彼らの幾人かは、迫害を受けてヨーロッパを脱出した後に陸軍に入隊したユダヤ系アメリカ兵だった。また、裁判における弁護人らは、主任尋問官ウィリアム・パール中尉(William Perl)の振る舞いを特に指摘した。パール中尉はプラハ出身で、妻はラーフェンスブリュック強制収容所の元収容者であり、この事から報復感情に基づいて不適切な尋問を行ったとされた。尋問官らは嘘発見器も用いて証言を行い、委員会では被告人らの訴えた拷問などは大部分が虚偽か誇張されたものであると判断した一方、同時に裁判の手続きに重大な問題が多数あることも認め、判決はされに修正されることとなる。1951年までにほとんどの被告が釈放され、残るパイパーらの判決も死刑から終身刑に減刑された。1954年にはさらに減刑が決定し、1956年にはゼップ・ディートリヒとパイパーがランツベルク戦犯収容所から釈放された[4]

なお釈放後、パイパーは偽名でフランスに隠遁していたが1976年、正体が発覚し自宅に火炎瓶を投げ込まれて焼死した。
この事件を扱った作品

映画 『
極寒激戦地アルデンヌ ?西部戦線1944?』(原題:Saints and Soldiers) - 冒頭の場面でマルメディ事件を扱っているが、一人のアメリカ兵が逃亡し、それを武装親衛隊員が射殺。それに動揺したアメリカ兵が親衛隊員から銃を奪って親衛隊員を射殺したため、武装親衛隊が米兵を銃撃したという偶発的事件として描かれている。

映画 『バルジ大作戦』(原題:Battle of the Bulge) - マルメディ事件の描写があるが、本作では武装親衛隊による計画的な虐殺であったというストーリーになっている。

脚注^ a b c d e f g h i j k l m n Michael Reynolds. “Massacre At Malmedy During the Battle of the Bulge”. HistoryNet.com. 2022年1月9日閲覧。


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